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楽譜のお勉強【57】ヨハン・アドルフ・ハッセ『ミゼレーレ ハ短調』

ヨハン・アドルフ・ハッセ(Johann Adolph Hasse, 1699-1783)はちょうどバロック音楽の終焉と古典派の音楽の幕開けをつなぐ時代に活躍した作曲家です。若い頃のエピソードはあまり知られていませんが、1718年にハンブルクのオペラ劇場にテノール歌手として勤めます。この成功を機にブラウンシュヴァイクの宮廷劇場で働くようになり、作曲も頼まれるようになったのがキャリアの始まりです。ブラウンシュヴァイク公によってイタリアへ遊学させてもらい、現地でアレッサンドロ・スカルラッティと親しくなり、師事しました。イタリアでも成功を収めたのち、その後、ドレスデンで宮廷楽長として長く勤めます(辞職勧告を受けたこともありましたが)。晩年はウィーンに住んで最後まで積極的に舞台作品を作曲して活躍しました。

本日読む『ミゼレーレ ハ短調』は今日ドイツのシュトゥットガルトのカルス出版社から容易に入手できます。カルス出版社はドイツのバロック音楽や古典派の音楽を、学術的な研究をもとに多数出版する会社で、ハッセの作品も、「ドレスデン宮廷のバロック音楽」シリーズとして、ゼレンカ、ハイニヒェン、ロッティなどの作品とともに数多く出版されています。バロック時代や古典派の時代の音楽は、著作権保護期間が過ぎているので出版社が自由に出版することができますが、実際にはバッハやベートーヴェン、モーツァルトやショパンなど、新たな音楽学習者が無尽蔵に現れ、次々に必携楽譜として購入していくような作曲家以外は、実は手に入りにくいことが多いです。ハッセは演奏家に人気がありますから、どの曲も一社からしか手に入らないということはありませんが、大規模な合唱曲のフルスコア(管弦楽伴奏が全て書かれている楽譜)などは、必要とする人が少ないため、ごく少数の出版社しか手を出しません。たくさん刷っても在庫を抱えて赤字のリスクもあるので、近年ではオンデマンド版やダウンロード版として楽譜を提供する出版社も増えてきました。

Johann Adolf Hasse,『ミゼレーレ ハ短調』の自筆譜ファクシミリ

ハッセの作品群の中で、著しく数が多いのはオペラです。作曲したオペラは120作品にも及ぶそうですが、今日現存していないものもありますし、60~70曲ほどが知られているといった感じでしょうか。演奏される可能性があるものはもっと数が少ないです。それでも他の作曲家と比べるととても多いです。魅力的な作品が多いのですが、オペラのプロダクションは大きなプロジェクトなので、どうしても知名度と人気が高い作品が取り上げられがちなのが現状です。ハッセには他にも多数のオラトリオがあり、ミサ曲やレクイエムなどの宗教音楽、多数の器楽のためのソナタや協奏曲もありますので、オペラよりもそういった曲目で知られているような気がします。

「ミゼレーレ」とは、聖書の詩篇第51篇の冒頭の語で、「憐れみたまえ」というほどの意味です。西洋クラシック音楽では、聖書の聖句に音楽をつけたものがとても多く、特に全150篇からなる「詩篇」は、非常にしばしば作曲されてきたものです。第51篇の詩篇も「ミゼレーレ」もしくは、「ミゼレーレ・メイ、デウス」というタイトルで音楽史上に数々の名作を見つけることができます。なんといっても有名なのはグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri, 1582-1652)が作曲した『ミゼレーレ』で、若きモーツァルトに大きなインスピレーションを与えたことでも有名です。現代でもペルトやグレツキといった作曲家がしばしば演奏される『ミゼレーレ』を作曲しました。

ハッセの『ミゼレーレ ハ短調』は1730年か1731年に初演されたと言われています。ハッセは全部で3曲の『ミゼレーレ』を作曲しており、それぞれハ短調、ニ短調、ヘ長調となっています。ハ短調の『ミゼレーレ』は、SATB(ソプラノ、アルト、テノール、バス)独唱、SATB合唱、2本のフルート、2本のオーボエ、ヴァイオリン2声部、ヴィオラ、通奏低音のために書かれています。20節と結句から成る詩篇は、8つの部分に分けられ、8楽章の音楽として作曲されています。詩篇をもとにした作曲作品の規模がそれなりに大きなことが多かった古典派の時代には、このように一つの詩篇が分割され、多楽章形式で作曲されることもしばしばありました。ロマン派以降は楽章分割することがやや減って、現代では稀かもしれません。

第1楽章『ミゼレーレ・メイ、デウス』(神よ、私を憐れんでください)。シンコペーションのリズムに乗って、上行ゼクエンツ(ある音型を順次移旋していくこと)で緊張感を増す開始です。このシンコペーションのモチーフは、合唱が入ってきてからも続き、対旋律のような役割を持っています。合唱も、導入で要所々々にシンコペーションが用いられていますが、ヴァイオリンの対旋律の2倍の音価になっており、対旋律のリズム点の空白を埋める効果があって、響きが充実しています。溌剌としたリズム感のある対位法へと展開します。

第2楽章『ティビ・ソリ・ペッカーヴィ』(それゆえ、あなたの判断は正しい)。バス独唱による短い楽章です。短いながらも、作曲技法が凝らされた楽章で聞き応えがあります。歌の導入までの短い前奏は、ヴァイオリンの跳躍音程を多く含む旋律がおもしろく、フレーズの終わりには非常に大きな跳躍を挟んでしゃっくりのような不思議なフレーズ感を生んでいます。その前奏に呼応するようにバスも分散和音を跳躍しながら歌い、アクロバティックな歌唱が耳を惹きます。続く主題は同音を四分音符で繰り返し歌って始まり、最初の主題とコントラストを作りますが、ここから始まる3小節が第1楽章にも見られた上行ゼクエンツとして展開されます。ゼクエンツとして扱うフレーズが長くなったことで、大きな表現になっています。

第3楽章『エッチェ・エニム』(見よ、わたしは)。変ホ長調で書かれており、長調の優しい響きが緊張を緩和します。細かく動く伴奏の旋律に対し、合唱の旋律に動きは少なく、荘重な雰囲気も感じます。ソプラノとアルトの独唱だけが歌う二重唱、ソプラノ独唱、アルトとテノールの二重唱と続きます。アルトとテノールの二重唱は声楽二重唱の中でも割と珍しいほうで、個性的な響きです。その個性的な響きの直後にテンポがアレグロに変わって、快活な合唱で楽章を結びます。

第4楽章『リベラ・メ』(わたしを救たまえ)。ソプラノとアルトの独唱者による二重唱です。ゆったりした和音進行の中で静謐に歌われる美しい楽章ですが、オーケストラ・パートに度々トリルが入る様子がキラキラとした光の粒を表現しているようです。歌の節回しにも工夫があって、細かい音符でハーモニーを揺らす様子や、オーケストラ・パートのモチーフに寄り添って歌詞を伸ばしたまま歌を切って管弦楽パートの一部のように応唱させる技法が見られます。

第5楽章『クォニアム・シ・ヴォルイッセス』(あなたが犠牲を望まれるのなら)。ソプラノ独唱の楽章です。ソプラノ・パートに高音のBフラットが何度か出てきて、作品全体の中でも歌唱が際立つ音楽です。パワフルに高音を聴かせるソプラノと拮抗する管弦楽は、ヴィオラとバス楽器以外が細かい音価でユニゾンの旋律を演奏し、旋律線としては厚みを感じるものではありませんが、音圧があります。ただし、弦楽器群は弱音器をつけて演奏されるため、非常に柔らかい表情です。

第6楽章『ベニニェ・ファク』(主よ、よくしてください)。最もアレグロという指示で、短い時間に一気に合唱で歌いあげます。堂々とした音楽で、曲が終わりに向かっていることを予感させます。

第7楽章『グロリア・パトリ』(栄光)。ハ長調で書かれており明るく、栄光を表しています。アルト独唱による楽章です。歌詞は詩篇第51篇が終わった後の結句部分ですが、この部分をハッセは2パートに分けて栄光を表すハ長調から、最後の第8楽章では全曲の主調であるハ短調に回帰します。高音で、次第に音価を短くして輝きを増していくような管弦楽書法に対して、我が道をゆく深い響きのアルトが存在感を放っています。

第8楽章『シクット・エラト ー アーメン』(そのまま、アーメン)。救済を求める人類の悲壮な想いとでも言うのでしょうか、激しい楽想で合唱全体で歌われます。勢いは衰えず、終結部のアーメンに突入していきますが、最後は長調の響きで希望を持って終わります。

短調の楽章全体を通して目立つ音があります。音階の2番目の音を半音下げて用いることが多く、旋法的な雰囲気をもち、また短調の暗い音楽がさらに陰鬱に響きます。音階の2番目の音を半音下げる場合、ナポリの6という和音を用いることがしばしばありますが、ハッセの場合はこれはあまり見られません。ivの和音に向かうVの9度和音として用いられることがほとんどです。対位法は声部の導入を小節単位でずらすようなシンプルなものがほとんどで、声部の導入が終わってからはすぐに先行声部に吸収されていくことが多く、対位法優位の音楽が終焉しつつあることを確認できます。次の時代へ向かっていくことを耳で確認することができました。ハッセは非常に多作な作曲家です。私も詳しいわけではありませんし、まだまだ充実した音楽がたくさんあると思います。気に留めて機会を見つけて聞いていきたいと思います。


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