岩本明評 キム・チュイ『満ち足りた人生』(関未玲、彩流社)
一人の移民女性が語る、強くしなやかな人生再生の物語――繰り返し何度も味わいたい一冊
岩本明
満ち足りた人生
キム・チュイ 著、関未玲 訳
彩流社
■本作はケベック在住の作家キム・チュイによる『小川』(二〇〇九)、『ヴィという少女』(二〇一六)に続く三作目の小説である。自身も移民であった作者が、カナダに暮らす移民女性を主人公として新たな物語を描く。
主人公であるマンはベトナムで生まれた。生母はマンを産んですぐに亡くなり、マンは尼僧に拾われ、その後改めて育ての母に引き取られる。ママ(主人公は作中で生母と尼僧を「母」、育ての母を「ママ」と呼び分ける。本稿ではそれに倣った)は教師であり商人でもある、聡明な女性だ。成長したマンはママの勧めで見合いをし、ケベックでベトナム料理店を営む年上の男性に嫁ぎ、カナダへと渡る。マンはそこで料理の才能を発揮し、付近に住むベトナム移民たちは彼女の料理を介してコミュニティを築く。
結婚生活は、よそよそしく儀礼的ではあるが、大きな波乱もなく穏やかなものだ。子供を二人もうけ、ベトナムから呼び寄せたママと親しい友人たちに支えられながら子供を育て、料理教室でたくさんの生徒を教え、レストランの厨房では新たなメニュー作りに明け暮れる。これこそが「マン(満ち足りた)」――これは主人公の名前でもあり、主人公のレストランの名前でもあり、本作のタイトルにも冠されている――だ。そう思っていた主人公に転機が訪れる。
レシピ本『天秤棒』の出版と、それが大成功を収めたことをきっかけに、マンの世界は大きく広がっていく。評判はケベックだけに留まらず、マンの料理はパリのベトナム移民たちをも魅了する。その中には、熱心な読者のフランシーヌと、弟リュックもいた。ブックフェアのためパリを訪れたマンはリュックと出会い、人生で初めて激しい恋に落ちる。この瞬間、これまで「満ち足りた」ものであると自負していた自らの人生に、はっきりと欠けているものがあったことにマンは気付く。ともに既婚者であるマンとリュックの恋は互いの家族たちを傷つけ、苦難の道となるが、否応なく想いは深まっていく。
本作は単なるラブ・ストーリーではない。リュックとの出会いにより、これまでマンがほとんど認識すらしてこなかった異性間の愛、そして男女の愛情表現の数々が描かれるのだが、リュックによって導かれた新たな世界でマンが実感するのは、男女間に留まらない、さらに深く広く普遍的な愛だ。
本作には、愛に関してリュックよりむしろ重要な役割を担うかもしれない女性が二人登場する。一人はマンの親友であり姉のような存在でもあるジュリー。もう一人は育ての親としてマンのすべてを見守るママである。
ジュリーは誰に対しても常に惜しみない愛情を示す。マンの子供たちとも、ハグをし、優しく、ときには厳しく導き、第二の母と呼ばれるほどの信頼を築く。相手に気づかれぬよう感情を表さずにいるのが常であるマンの代わりに、子供たちに無償の愛を注ぐ姿を見せるのがジュリーである。
ママの存在はさらに複雑だ。マンを誰よりも愛する存在として、そしてマンから誰よりも愛されてきた存在として描かれている。はっきりと口に出すことはないが、互いに非常に強い愛着を抱いていることが随所に覗える。レシピ本が『天秤棒』と名付けられたのも示唆的だ。エピソード「地雷」(三二ページ)によると、天秤棒のイメージはママの少女時代の思い出と強く結びついている。一つ一つのメニューを誰かの「思い出」(四四ページほか)であるとマンが表現していることからも、このレシピ本はママとマンの思い出の数々を象徴するものなのであろう。また、リュックに招待されてコンサートに向かう前にも、マンはリュックのことを想うのではなく、ママから聞いた祖父母の恋物語の一部を回想する。
マンの中に長い間封じ込められていた愛情が発露していくきっかけはリュックとの恋だが、その愛情はリュックだけには向かわない。それはジュリーのように、子供たちへの慈しみを自発的に示すこととして、あるいはママに寄り添い、互いの心を深く理解し合うこととして現れる。それがマンの見つけた新たな愛の世界、生き方なのだ。
著者の食文化に関する丁寧な描写も、本作をさらに魅力的に彩っている。バナナ、塩漬けのライム、レモンの青く瑞々しい香り。フトモモ、パパイヤ、マンゴーの熟れた甘い匂い。クローブやペッパーのスパイシーな香り。ベトナムの路地に流れるスープや鶏肉の煮込みの湯気、あるいはフランス料理の厨房の、ソースやブイヨンの濃厚な匂い……世界をめぐる主人公の足取りを追っていると、ページの間から漂う様々な匂いに嗅覚を刺激されるようだ。
本書の構成は簡素で、章による区切りはなく、短いエピソードの連なりでできている。それぞれのエピソードは主人公の思考の流れに沿って並ぶ。時系列ではないため一読では気が付かないが、読み返すと後の内容の伏線となっている箇所などが見つかるだろう。繰り返し何度も味わいたい一冊である。
(編集者)
「図書新聞」No.3590・ 2023年4月29日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。