古森科子評 エリン・モーゲンスターン『地下図書館の海』(市田泉訳、東京創元社)
評者◆古森科子
選ばなかった人生のその先にあるもの――ファンタジーを中心とした物語へのオマージュが随所に見受けられる
地下図書館の海
エリン・モーゲンスターン 著、市田泉 訳
東京創元社
No.3596 ・ 2023年06月24日
■人生は選択の連続だ。選べる道はひとつ。でも、諦めたチャンスがもう一度訪れたら?
主人公のザカリー・エズラ・ローリンズは、振興メディアを専攻する大学院生だ。本とゲームが好きで、学校の図書館に足繁く通う彼は、ある日、背表紙にも表表紙にも何も書かれていない奇妙な本を見つける。開くと、タイトルページに『甘い悲しみ』と書かれている。なぜか図書館には登録されていなかったが、司書のはからいで借りることができた。寮に戻ってさっそく読み始めたザカリーは、その内容がにわかには信じられず、ひどくうろたえる。短い物語がいくつも連なった、長篇なのか短篇なのかわからないその本の三話目に登場したのはザカリー自身の物語だった。
本書は、『甘い悲しみ』との出会いをきっかけに〈星のない海〉をとりまく時空を超えた迷宮に足を踏み入れるザカリーの冒険譚で、ファンタジーを中心とした物語へのオマージュが随所に見受けられる。〈「お礼にイレブンクロー(ハリー・ポッター・シリーズに出てくる学寮)のマフラー編んであげる」〉とか、〈ニセウミガメにちなんだ店名をバーにつける者はいるだろうかと考えた(『不思議の国のアリス』に登場する偽ウミガメのこと)〉といった具合に、古典から比較的新しい作品にいたるまで、さまざまな物語の断片があちこちに潜んでいる。本作品の文章構成は、ザカリー自身の物語と、彼が出会う数冊の本の物語が交互に展開する入れ子構造になっていて、読み進めるうちに両者は次第に混じり合い、境界が曖昧になっていく。そうして彼の冒険を追う読者もまたこの入れ子構造の一部となり、物語にとけこんでいく。
ザカリーは子供のころ、下校途中の裏路地で不思議な扉を見つける。真っ白な高いレンガの壁に描かれた扉には、縁を取り巻くように幾何学模様が施され、のぞき穴がありそうな高さには、上から一匹の蜜蜂、鍵、剣が描かれていた。本物と見まごうほどに精緻な扉に吸い寄せられるように近づくも、ついにドアノブに手をかけぬまま、時は流れる。大人になって偶然手にした『甘い悲しみ』には、少年時代に扉を発見したときの様子が克明に描かれていた。不思議な本の謎を追ってマンハッタンのアルゴンキン・ホテルで開かれた文芸仮面舞踏会に参加したザカリーは、そこで知り合ったミラベルやドリアンらと関わりあううちに、秘密の組織に狙われ、次第に危険な冒険へと突き進んでいく。
主人公がひょんなことから未知なる世界に迷い込むのがファンタジーの王道だとすれば、すぐに扉を開けなかったこの作品は、そうした王道とは一線を画す。とはいえ、そこで語られる物語には、そうした著名な古典にひけをとらない重厚さと奥行きがあり、海賊が登場する冒頭から一気に惹きこまれる。
また、同書はただの冒険譚ではなく、かつて選べなかったチャンスを選びなおす大人の再生物語でもある。子供のころには踏み出せなかったザカリーも、お酒を飲める程度には大人になり、けれども物語を手放せない程度には現実に染まりきれぬまま、ふたたび訪れたチャンスをつかみ、ドアノブに手をかけて扉の向こうの世界へ飛び込んでいく。
その先の詳細については、「本というのはいつだって、説明されるよりは読む方がいい」という本書の一節に従って割愛するが、読んでいるあいだは、どこまでも深く広がる地下世界の壮観さ、〈時間〉と〈運命〉が複雑に絡みあった数々の物語の謎、書物への敬意と愛情に絶えず圧倒された。謎が解けるたびに、そういうことだったのかと前のページに戻る楽しみに加えて、番人、侍祭、蜂蜜、蝋燭、梟といった物語を形作る重要な人物や事物の情景がありありと浮かぶ鮮やかな描写にも魅了された。
本書は、デビュー作『夜のサーカス』に続く著者エリン・モーゲンスターンの二作目で、二〇二〇年にはドラゴン賞ファンタジー長篇部門を受賞している。そのストーリー展開はもちろんのこと、主人公の脇を固める女性陣の魅力も見逃せない。ザカリーは決して果敢に冒険に挑む勇者ではない。何度も弱気になり、やめようかと逡巡し、それでも勇気を振り絞って、ときには心の声に従って、一歩を踏み出す。そんな彼を支えるのが、現実世界ではキャットと呼ばれる同級生、地下世界ではミラベルという女性だ。キャットもミラベルも前向きで快活だが、それぞれが秘めた思いを抱えている。本編に多くは登場しないが、ザカリーの母親で占い師のマダム・ラブ・ローリンズの、ザカリーを想い信じる愛情はどこまでも深い。そしてこの母の愛は、現実世界から消えたザカリーを心配するキャットの心をも包み込む。そうした人々に支えられながらも、最後はザカリー自身が決断し、自分で選んだ未来をつき進んでいく。ザカリーがあのとき開けなかった扉を開けたとき、〈時間〉と〈運命〉は動きはじめた。人生はいつだって覚悟を決めて一歩を踏み出す者を歓迎するのだ。
(翻訳者)
「図書新聞」No.3596・ 2023年06月24日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。