継続と一定と澱みない文章

自分の無価値な部分が『たまたま』見過ごされて人生が成立してるって感覚ないですかぁ❓

前提として完璧な人間っていないですよね。

こんばんは。
本来文章に考える暇なんて必要ないんです。一旦でも源泉を断ち切らない限り湧き続ける水のような。
そこに様々な『ノイズ』がΣ(・□・;)

……紛れ込み書く手が止まります。それは非常にもったいない。

タイピングは私、下手くそですが、上達の道筋は想像できます。
それは『たとえゆっくりでも澱みなく一定のテンポで』を心がけ、やがて自然にスピードが上がるのを期待する戦法です。

確実な『一定』の獲得が第一歩です。
物事の『継続』が推奨されているのもこの点にあると思います。
『一定』の射程は、先ほどのタイピングのように瞬間瞬間でもあるし、日を跨いだ、週単位の、年単位の……と、色々応用が効きます。

つまり『一定だからこそ気がつける』部分の発見の可能性を高める儀式のような。
武術やスポーツの世界で『一日サボったら取り戻すのに三日かかるぞ⭐️』と言われてるのも一緒です。

今書いてる文章だって、一切止まらずに書いています。慣れたら簡単です。

しかし慣れてない人は『まず内容を考える→言葉を当てはめつつ書き始める→色々踏まえつつ次の文章を考える』……を繰り返しているのではないでしょうか?

まあ、他人の事は分かりませんが

ともかく私は『途中参加しつつ拾っている』……ような❓

書きたい欲求は当然常にあり、書きたい言葉や伝えたい気持ちが漂い続けている。この感覚だから、そもそも始まりや終わりの区別がないのです。

以前も似たような事を書いた記憶があります。
『川の水をサッとすくってハイと差し出す』ような。

その川の『本当の源泉』にアクセスするのは不可能に近いと思います。
上流や中流もまだいい。

しかし下流を超え『海』となると、浅く誰でも思いつくような陳腐な書き物になります。まあ共感を得られやすいのはこっちですが。

ゲームとしてでも体験するのをオススメします。
澱みなく限界まで書く楽しさを伝えるには、同じ体験をして貰うしかありません。

けれどいくら限界を迎えても……そうですね。
こんな経験ないですか。

すごく仲がいい人と久々に会い、これでもかという程喋った。お互い満足し別れたが、その帰路で『あっ、なんでアレ言わなかったんだろう』と発想する瞬間のような。

この感覚が大事なんです。
途切れのない『あっ』が。
たくさん書いて投稿しても、次の瞬間に『あっ』となるような脳内状態を維持……する為には、最低限定めた一定のノルマくらいは余裕でクリアできる自分になり続けなければいけません。

槍が降ろうが病に伏せようがお構いなしに実行する自分を。

伝統に否定的な人が居るとして、伝統存続のお手伝いもしてないのに語るのは野暮。存続させる意思があるからこそ湧いてくる考えがあるのです。

何事も継続しなかった人と、毎日何かを必ず実行する人は、会話が噛み合わないと思います。

けど私は、どちらかというと『継続できない人』です。本当にたまたま『自分には書く行為が合っている』と自覚できただけです。

様々に手を出しては三日坊主に終わる人だって、もしかしたら何かにいつか出会えるかもしれません。

しかしソレは誰も保証してくれません。

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