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ルサンチマン的思考を警戒せよ
例えば嫌いなヤツが居て、同じになりたくないから、ほぼ正反対(であろう)の言動を心掛けるとする。
そして
『嫌なヤツの反対なのだから間違いない/人間的に優位/もはや正義』
と思考を止めてしまう――こんな短絡的な思考で生きてる人は存在しないと思いたいが、人間天邪鬼。勉強しなさいに反抗するのがサガなのだ。
事実私も『あんな事してたまるか』と様々な制約を課している。経験や人のフリを材料にして。
小学生の時、暴力教師が担任だった年にいっぺんも宿題を出してやらなかった。暴力に屈するぐらいなら校庭10周を選ぶ。
……だが、この先に『過大評価』という名の誤謬がある気がするのだ。例えば、『少なくとも暴力を振るわない自分は人間的に優れている』――という。それは社会的な最低条件を満たしているだけであり、ごく普通の。
世の女性が男性に放つ『え、まぁ、優しい人ダネ』も『キミは常識的な視点で見れば……うん、普通の……』といった具合で、ご存じの通り誉めてない。
だが『ボクは悪いヤツの反対』という属性が加わる事で、妙な味付けがされるのであろう。
人のアレ見て我がフリ云々も、そりゃまぁそうなのだが、簡単な出来心程度で人間の品位は急上昇したりはしない。
更に『箸を持つ手も憎い』となりゃあ末期だ。どんなクソ人間にも褒めるに値する箇所があり、先手でバイアスを発動させてはいけない。
・自身が重要視している事柄
・又は環境により『そう思わされている事柄』
などに比較やルサンチマンの種が生ずると予測する。
有名人や政治家が不適切な発言をすると過剰に叩かれる世の中。その『熱』が余計に『正反対の像の熱』となる。
『あんな事しでかすなんて信じられない。その点私は――』という思考を、誰もが1回はするんじゃないかな。又は、不祥事が起こる度に。
じゃあどうするか
……知らん。
🔔『またこのパターンか……』
まぁ、私からは『書いて思考して偏りに気づく可能性を少しでも上げろ』としか言えない。後は誰にも侵略できない幹や一定を感じる『継続行為』を持つこと。
例えば毎日書いてたらさ、『何回この話題すんだよ』ってテーマが自ずと出るんよね。それ自体が偏りの可能性を持っている。その偏りに、様々な角度からの考察(もどき)を与える。
人間の説明不可な脳内の働きに『コレ❗️』みたいなメソッドがあるワケない。結局は常に微調整をするしかない。『微』に気がつくには書いて自覚するしかない。だから適当なメソッドをイチイチ信じて変な事してるヤツはアホに見える。その点私は――
🎀(欠伸)
よくある話だよなぁ。
例えば学生時代に『あいつは最近できた恋人にかまけて様々が疎かになっている。よくない。その点ウチらは違うから友達だよなぁ⁉️』的な空気。
物事ってね、並行して存在できるんすよ。それは疎かではなく変容で、具合が少し変わっただけ。
島国的な監視は生存戦略とも言えるが、往々にして息苦しい。純潔まっさらな『平等』など、どこに転がっている。
誰もが『差』を意識して生きているし、きっと逃れられない。だがその差を、相対的過大評価として自身の納得の材料にしちゃいけん。
差とはもっと、厳然とした性質だと思う。
ゆえに、冷静な目が必要になる。
そして誰もが、汚く放置された公衆便所を見たことがある……のだ?