『私は優しい人間です』について
そう自称する人間(自分で言うなや)の心理はわからないが、想像してみた。
『自分は優しい』ので
・無条件で愛を与えます
・あなたを許します
・損もいとわないです
・平和を願っています
……アホらしくなってきたので打ち切る。
『自分から言う』ってのは『その点に自信がない』の裏返しだったり、『そう思われたい』って意図がある気がする。
『意図』の場合、『優しいと思われた』の先を見越しており、功利的な匂いがする。
この手の人を何度も目にしてきたが、共通して湧いた気持ちがある
『いやいや……どこが⁉️⁉️』
根拠。
個人的な経験からくる感想だが
『行動が伴ってない』
散々別の面で『おいおい……』な事をしておいて、それを全て忘れ去っているのかおくびにもださず『私は慈愛の天使の化身……あなたの全てを許しますし、今日もこんな優しみに溢れる事をしました✨』
あはは
私だったらナイフで脅されてやっと出るか出ないかのセリフだな。別に善行をこころがける事自体はいいんだけどさ。
そういうのは他者が実感として受け取るモノで……ってこんな説明をするのすらアホらしい。
人間の性質からして、自称優しい人には自称優しい人が寄り付くと思うが、その集団は『みんな優しい』ので、逆説的に排他的集団となる。
なぜなら全員が思わず自称するほどに『優しい』ことを至上としており、それを信じ続ける限り『優しくない』人は寄り付けなくなるからだ。
言い換えると『なんか胡散臭いな/ウソ臭いな』って思っちゃうワケ。
私の人間観としては、『大抵の人は優しい【面】を持っている。だからいちいち口にする必要はない』ってカンジだ。
わざわざ【面】と強調したのは、優しいの判定は『受け手』に委ねられており、いかなる聖人君子とて批判の的になる可能性は常に秘めているからだ。
↑っていう当たり前の事実を『成人』君子諸君はとっくに了承済みだと私は勝手に思っているが、なぜか優しい人間だと自称する人間は絶滅しない。
『その受け手にとって都合がいい』から優しいと判定されるがゆえ、状況と人によるってのは理解できるだろう。
その前提を理解していれば、一方的な『私は優しいです宣言』がいかに不自然かおわかりだろう。
『優しさのテンプレート』を用い浸っているだけで、工夫がない。無闇に被災地に折り鶴を送りつけるようなアレだ。
ほんまに優しいんなら、実際に現地に足を運び、当事者の意見に耳を傾けデータを集め、実現の為に取捨選択をし、更にその案を当事者に提案し、了承を得てやっと実行する……という手順を踏むだろう。
『こうすりゃ喜ぶだろw』ってのは安易だ。
この記事の9割は『言うまでもないこと』で形成されている。
だが人の優しいアピールは後を絶たない。不思議だ。
『自分をよくみせよう』って心理はわからんでもないが、もっといいやり方、あるんじゃない❓
みんなはどんな自分を『自称』するだろうか。
私は『なんか生きてるヤツ❗️』ぐらいしか浮かばなかった。
ま、最近の記事に書いた『人間を愚直なバカだとして見下してる』ような人ほど、安易に走るのだ。
『こいつはバカだから適当に優しさアピールしとけば即座に盲信し私への評価を上げるだろう』みたいにさ。
安易に逃げるより、もっと人間の混沌に目を向け続ける方が有意義だし勉強になる。
最近のエンタメにだって悪い傾向がある。
といっても全体の数割程度だろうが、要するに『登場人物が愚直なバカ』だから物語と会話が成立しているような。
なぜ、青春ボーイミーツガールが量産されるか。
答えは……言うまでもない。
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