そう考え始めたら すぐに実行に移さなければ気がすまないので、 すぐに鍼灸学校の入学案内を取り寄せた。 ぎりぎりで願書の提出が間に合った、 仙台の学校になんとか合格し、 久しぶりの学生生活を仙台ですることになった。 鍼灸の専門学校は3年間で 入学金や授業料もばかにならない金額で、 蓄えがほとんど底をついてしまった。 文枝が働いてくれていたおかげで なんとか生活できている状態だったが、 不思議と将来に対する不安は 二人ともまったく感じていなかった。 どんなことをしても 食
ペンションの仕事は自分に向いていると思った。 なによりも自然の中で暮らしながら たくさんの人たちと出会うことができ、 人のお世話をして喜んでもらえる というのは大きな魅力だった。 しかしペンションを自分の生涯の仕事にするか というともう一つ踏み切れないでいたのだ。 もっとなにか、 もっと自分が納得できるものはないかと どん欲に自然食から農業、哲学の本を読みあさっていた。 たまたま本屋でそのころ活動が始まった ホリスティック医学の本を見つけた。 ホリスティック医学と
帰国してしばらくは 何もする気が起こらなかった。 自分はこれから何をすればいいのか、 何ができるのか、 そんなことばかり考えながら 毎日をもんもんと過ごしていた。 しばらくして、 もうじっとしていられなくなり、 行く当てもないまま文枝と二人で 旅に出ることにした。 旅ももうそろそろ終わりになる頃、 ペンションの雑誌を本屋で立ち読みしていたら 信州の安曇野にあるペンションの オーナーの記事が掲載されていた。 もう旅も終わろうとしており、 何か一つでも手掛かりを見つけて帰
バンコクから、 今にも落ちそうなほど揺れる インディアンエアーに乗り、 なんとか無事にカルカッタに到着した。 インドはやはりすごかった。 空港に着くなり闇の両替屋や 物売りが群がってきた。 町は人であふれかえり、 道端には土の塊になっているような 老人がうずくまっている。 その迫力にうろたえていると、 物乞いに「あなたにはお金がある、 お金のないわれわれに与えるのは自然の摂理だ」 と言われて、たじたじになったこともあった。 インドには日本人の旅行者も結構いて、 なか
再び日本を離れることになった。 2度目のオーストラリアは もう自分の庭のようなものだった。 住むところも仕事もすぐに決まった。 ドイツ人の借りているアパートに間借り(シェアー)して、 以前働いていたレストランで、 また働かせてもらうことになった。 2度目になると勝手を知っている分だけ、 新鮮な感動も少なく、 半年働いてビザが切れたところで、 オーストラリアを出ることにした。 その頃はオーストラリアよりも 東南アジアに興味が移っていた。 オーストラリアを出て、 まず始
葬式の後、しばらく実家で特に何もせず 毎日をすごしていた。 そんなある日、 父が「お前またオーストラリアに行っていきたらどうだ、 このままここにいてもみんなで傷をなめあっているようで、 かえって踏ん切りがつかないから。 お前たちが向こうに行って、 自分の好きなことをやって楽しんでいると思うだけで、 父さんや母さんは新しい希望が湧いてきそうな気がするよ」 と言ってくれた。 このままここで暮らしていくのも憂鬱だけど、 今自分がいなくなったら両親が寂しがるだろうと 考えると踏
家に帰ってからの弟は、 ますます調子が悪くなり、 部屋に引きこもり、 ほとんど話をしなくなっていった。 肌寒い小雨の振る秋の夕方、 夕食時に急に弟が暴れ出した。 いつになくひどい暴れようで、 テーブルにイスを投げつけ、 外に出て隣の家にものを投げつけた。 父とようやく押さえつけ、家に連れ戻すと、 2階の自分の部屋に駆け上がっていった。 部屋ではラジカセが壊れるくらいの爆音で 音楽をかけていた。 かなり興奮しているので、 しばらくそっとして置いた方がいいだろうと思い、
そんなとき、実家から、 友達のアパートに電話がかかってきた。 5歳年下の弟が家で暴れたり、引きこもったりで 親だけで面倒みるのは大変そうだから、 すぐに帰ってきてくれ、という祖父からの電話だった。 これは普通ではないなと思い、 文枝はオーストラリアに残したまま、 取りあえず自分だけすぐに帰国することにした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 久しぶりの日本では、 重苦しい現実が待ちかまえていた。 弟は中学のときにいじめにあい、 高校に入っても同じグループにいじ
半年くらいの間に日本脱出の準備を進めて、 23歳の春に5年続けた仕事を辞め、 妻の文枝と一緒にオーストラリアでの 海外生活を始めることになった。 今の20代では珍しいかもしれないが、 私の場合その時が海外どころか 飛行機に乗るのでさえも初めての体験で、 全てが初体験、 ドキドキ、ワクワクの連続だった。 始めの一ヶ月間は、 イタリア人夫婦の家庭にホームステイしながら、 現地の英語学校に通って、 というおきまりのコースで、 オーストラリアの生活になじんでいった。 英語学校が
「何かもっと」 私は岩手県の三陸の海岸沿いの 小さな村で生まれました。 実家は小さな食堂を営んでおり、 それと合わせて、 自分たちで食べるための米や野菜を作っていました。 小さい頃の私は、 そんな田舎での生活に、 満足していたわけではなかった。 むしろ、できるだけ早く都会に出て、 都会での生活に憧れを抱いていました。 高校を卒業すると すぐに東京のスーパーに就職し、 憧れだった都会の生活を始めた。 もともと食べ物に興味があったので、 魚や果物、野菜を扱う仕事は楽し
伊豆高原で心身をリセットする宿「断食リトリート・やすらぎの里」を運営している代表の大沢です。 30歳のときに、この仕事を始めて28年。これまでに延べ8万人以上の方に利用してもらっています。 ゲストのみなさんに「なぜこの仕事をするようになったのですか?」 と聞かれることがあります。 やすらぎの里にいたるまで、いろんなことをしてきましたが、 今考えるとすべてのことがつながっていると感じます。 話せば長くなりますが、 私がどのようにしてやすらぎの里を開設することになったのか