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転職ランナー ① 〜 レッスンコーチとメッセンジャー 〜

シドニーオリンピックが終了し、北京五輪が3年後に迫っていた。僕は実業団ランナーとして勤めていた会社を辞め、トライアスロンに挑戦するという暴挙にでた。

3年勤めた会社を退職したのだが、しばらくは、辞めた会社の社員寮で暮らしていた。そこは、

「退職しても1年間は残っていい」

という親心のような緩い規則があった。
今から思えば、会社を辞めた人間が、その社員寮に1年近くも居続けるのは、どうかと思うが、当時はその規則に甘えていた。

都心から近くにあり、家賃が光熱費込みで五千円という、タダ同然の条件であった。

僕は武蔵小杉にあるスイミングプールで、早朝から行う「トライアスロンスクール」の手伝いをしながら、トレーニングを重ねていた。

それは朝6時から、出勤前にかけて泳ぐスケジュールなので、毎朝5時にプールへ行き準備を手伝っていた。

「皆さ〜ん、今日も元気に泳ぎましょう♪」

と7時半までの90分を余すことなく泳いで、大半の人は仕事に行く。

たまに学生やフリーランスの方、仕事がお休みの人は、その後、ランニング姿に着替えて、河川敷や大田区にある多摩川台公園を走った。


トライアスロンにおいてスイムの練習は、毎朝やっていたので十分だが、自転車のトレーニングが少なかった。

何かいい方法がないか探していたら、自転車便メッセンジャーの募集を見つけた。

「9時〜18時  週4日から応相談」

と書いてある。早速、面接をして月、火、木金曜、週4回の仕事を決めてきた。

そこは自転車を持ち込みで、時給1300円からのスタートである。会社は西麻布にあり、武蔵小杉から自転車に乗って中原街道をぶっ飛ばして通った。

大きなバックを背負い無線機をつけ、企業から企業へ、急ぎの書類を届ける仕事である。主に千代田区、中央区、港区を走り回り、東京の地図を頭に叩き込んだ。

まだ六本木ヒルズが更地の状態で、大きな重機が基礎工事をやっていた頃である。

この自転車便の会社は20人を1つのチームとして結成され、ディスパッチャーと呼ばれる者が無線で指示を出す。

「タク、現在地?」

「六本木交差点」

「今からマキとアキラがR社宛の荷物を持って通るから、それを持って大手町行ってくれ」

「了解!!!」

と3人が無線機から返事をする。それは常に交信しながら走るので、独特の連帯感が生まれてくる。

そんなある日、仲間がタクシーに跳ねられ、腕を骨折し、近くの病院に入院した。リーダー格の先輩が、

「みんなでお見舞いに行こう」

とまるで祭りに行く様な雰囲気で、僕も誘ってくれた。そして病院近くのコンビニへ行き、何とエロ本を買って手土産にした。

すると病室のベットで、横になっていたアキラは、満面の笑顔で、

「ついに俺の番が来たか〜」

と恒例行事の様に、それを受け取る。こんな日常が一年近く続いた。

そうこうしている内にビザを取得し、オーストラリアでプロのトライアスリートになると、僕は大見得を切って日本を旅立った。

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