東吉野村人やってます。(全6話 6,055文字)
ⅰ.古道づくり
奈良県東吉野村に移住して1年半が経とうとしている。
移住して3ヶ月間は家の周りの山を歩いていた。
そして道を作ることを始めた。東吉野村の小川という地区には、いくつかの集落があり、上出垣内(カミデカイト)というのが自分の住む在所である。
家は村道に面しており、お隣さんは30メートルほど離れて建っている。自分の家から上は、山肌にへばり付くように、家が4軒ほど点在しているが、人は住んでいない。
グーグルマップを見れば、家から上の山を500メートルぐらい歩けば小川城跡の史跡がある。引っ越して数日後、小川城跡へ妻を連れて行ってみた。
急な勾配の登山道を200メール程進むと道はなだらかになった。途中、苔むした石垣が積まれており、歴史を感じさせる道である。
周りは、一面に杉が植えられており、20メートルの高さはあろうか、枝打ちされ、整然と立ち並ぶ木々の間を、歩くのはとても心地よかった。
古城跡は大した見どころがないが、帰り道を歩きながら
「これは面白い、熊野古道みたいだ」
と感じていた。道幅は2メートルほどで杉の枝や倒木が足元に落ちており、少し歩きにくい。しかし、見上げれば空がほとんど見えず、緑の中に覆われている感覚が心地よかった。
その日を境に僕はこの道がどこまで続くのか歩き回り、そして道に落ちている枝を拾っては、谷側へ捨てることを繰り返した。
この山道の修復する工程を少し書こうと思う。
家から200メートルほど激坂の登山道を上るとなだらかな横道に変わり、しばらく歩くとT字路にぶつかる。
北に行けば村役場、南に行けばどこまで行くのか。捜索3日目にして「吉野フォレストヒルズ 花ごころ」通称、わらび園という所にたどり着いた。
途中、道が崩れている所や、風倒木が何ヶ所もあり、迂回したり倒れている木を潜ってようやくたどり着く。
そこは東吉野村と川上村を結ぶ林道武木線が通っており、久々にアスファルトの道に出た。ここまで家から5キロ程で、なだらかな上り坂が続いていた。
話は少し逸れるが、屋久島の縄文杉を見に行ったことがある。登山口から2時間くらいアップダウンの少ないトロッコ道をひたすら歩く。
トロッコ道の終点からは激坂が続くのだが、東吉野村で見つけたこの道はトロッコ道のように、なだらかな上り坂で普通に歩けば息は上がらない。
「トレイルランができる道が欲しい」
と東吉野村に引越して、願っていた事の1つが実現しそうだ。ホームセンターでクワを買ってきて崩れた道を直した。
基本的に砕石が多い地質の所が崩れることが多く、そうゆう場所は山側を少しクワで削って道を作る。砂や土が剥き出しになり、大雨が降ればまた崩れる可能性があるので、大きめの石を上に置いたりした。
あと、ノコギリで切れる範囲の風倒木を撤去したり、落ちている枝をひたすら拾っては谷側に捨てることを繰り返した。
今回の記事は少し長くなったが、ここでアントニオ猪木の言葉を引用したい。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。 ありがとう!」
ⅱ.続 古道づくり
東吉野村の古道作りを4ヶ月ほど続けて、障害物はだいぶ少なくなった。ある日、
「車と競走したら勝てるのでは?」
と思えてきた。車でわらび園まで妻と一緒に来て、帰り道を競走する事にした。僕は、
「役場の駐車場まで勝負や」
と彼女に言い残し、地下足袋を履いて走った。約4キロを18分そこそこで走しきり、地下足袋の勝利。
30秒くらい遅れて妻の運転する軽四が役場の駐車場まで戻ってきた。まあ、妻の運転は未熟であるが、車の道は倍以上の距離があるので、この結果になったのだろう。
もう少し古道を整備して風倒木を除けることが出来れば、F1ドライバーのアイルトンセナにでも勝てそうな気がした。
「サウナ小屋を作りたい」
これが東吉野村に移住して、やりたい事であったが、どこに作ろうかと思案していたら、4ヶ月が過ぎていた。
話を主題の古道作りに戻そう、小川地区から道を登り始め林道武木線の足ノ郷峠を越えると川上村まで出た。しかし、それは登山を思わせる激坂の上りと下りが続き、身体への負担が大きい。
試行錯誤を繰り返し、小村(おむら)のわらび園から三尾にかけて、山の中腹になだらかな道があるのが分かった。時間があればクワを持って崩れた道を直しながら道作りを進めた。
そのわらび園から先の道を探すのに何度も迷いながら、三尾の集落にたどり着いた。そこの在所に蔵心寺というお寺があり、さらにその上を登山道が通っている。
こちらも最初が勾配の急な坂道だが、山の中腹は、ほとんどが緩やかな道である。
東吉野村の村史に「小川街道」は小、三尾、狭戸、大豆生、麦谷を経て、地蔵峠を越え、川上村の瀬戸に至ると記されている。
この小川、小(おむら)、三尾の部分が開通した訳だ。恐らくだが、アスファルトの道が出来るまで、人は、この道を歩いていたと思われる、、、しらんけど。
ここからは去年の4月に書いたブログを引用しよう。
そうこうしていると4月になり、春の日差しが日を追うごとに強くなってきた。山道に落ちた枝を拾っては捨てる作業でも汗ばむ様になる。
移住者仲間と地元の若者で一緒に飲む機会が重なった。移住コーディネータのOさんは10年この村を見てきたが、
「地元の若者とこんな感じで交流するのは初めてだ」
と言っていた。そんな飲み会を繰り返す内に仲良くなった地元土建屋の息子が、
「仕事探しとんやったら、ウチに来たらええやん」
と言ってくれた。そして僕は
「週に2回、火曜と水曜だけでもいいっすか?」
と答えた。すかさず、土建屋さんの専務をしている息子は
「いいでしょう!」
とこころよく受け入れてくれた。
今日はその土建屋さんの現場で働いて、家でシャワーを浴びビール片手にこれを書いている。夕日がまだ高く、風が涼しい。
とりあえず今日もアントニオの言葉で筆を置くことにする。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。 ありがとう!」
ⅲ.今やっていること
東吉野村に移住して、もう少しで1年半になる。
何かを始めようと思い、まず、ケータイ屋をやることにした。
エックスモバイルの代理店である。
これは物価高と言われる現在に於いて、生活費を下げるには通信費の見直しが1番だと以前から思っていた。
その中で特に携帯代の見直しは、あまり知られていない様に思う。
山間部はドコモの電波が圧倒的に強いので、ドコモ回線を用いたMVNOのエックスモバイル社の代理店契約を取得した。
ケータイを売っている様に思われる事が多いが、回線を販売しているのが現状である。周知してもらうには時間がかかるので、じっくり説明しながら長い目でやって行かなければならない。
まず戸別訪問というか、各戸にチラシを配った。まだまだ反応は少ないが、周知するには唯一の方法だと思う。
勿論これは自分の利益のためであるが、社会貢献でもあると思っている。ほとんどのお爺さんやお婆さんはdocomoしか知らず、高いケータイ料金を支払っている。
多い人では月に7千円ほど安くなった。
これは年間にすると8万4千円になり、そして使い勝手は前と同じである。格安SIMの携帯にして良かったと思ってもらえるように丁寧に説明して広めていきたい。
もう一つは、シェアハウスを作りたいと思っている。
これは村にある空き家を、安く借りるか買い取って、改修しシェアハウスを作りたいと考えている。
モデルは「山奥ニート」やってます。
十津川村近くにある和歌山県の山奥で10人程のニートが集まって暮らしている。2020年にベストセラーになった本で、最近マンガにもなっているという。
家賃がタダで生活費を月1万8,000円を支払えば、何やっても良く、ひきこもってゲームしたりアニメを見放題らしい。
そんな山奥ニート10年目の作者がツイートしているので要約する。
・人間関係が平和すぎると、些細なことが気になり始める
・賃金労働から解放されても広義の『仕事』は発生する
・すべてのことは、無理にやらされると嫌で、自分で納得してやると楽しい。自分が納得するためならどんな大きなコストでも払う価値がある
田舎暮らしの実像がSNS上で大きな注目を集めた。僕もこの1年、山奥に住んで凄くその考えが分かる気がする。
そして、この「山奥ニート」の形が三重県やその近隣にも誕生しており、自分も作ってみたいと思っている。
ⅳ.天誅組の変 前編
東吉野村にはニホンオオカミが、最後に捕獲された場所として観光地化しようとしたが、インパクトの弱さというか...渋谷駅の忠犬ハチ公のような像が山間部の何もない県道沿いにポツンとある。
1905年に捕獲され、その剥製はロンドンの大英博物館に現存するらしい。
日本最後のオオカミが捕獲された日から42年時代はさかのぼる。幕末に天誅組の変という事件が起こる。
その幕末の志士が討ち取られた場所として、この天誅組を村は観光の柱にしようとしているが、インパクトのほどは如何なものか。
1863年なので大政奉還の5年前の話である。幕末の歴史好きな自分でも、天誅組のことは、ほとんど知らなかった。
維新先駆けの志士と呼ばれる天誅組について少しだけ触れてみたい。
京都の長州藩邸にいた吉村寅太郎ら数十人が同志を募り討幕の兵をあげた。
そして現在の五條市にある五條代官所に打ち入り、代官の首を斬った。39人の若者が、
「江戸幕府を倒すぞ!」
とテロを起こしたワケである。
奈良県五條市の代官所は当時、15人しかおらず、しかもその夜は宴会をしていたそうだ。
錯覚革命という言葉があるとすれば、この天誅組の変こそまさにそうだと思う。
京都では尊王攘夷が盛り上がり始めていたが、日本中がまだ何事もなく暮らしているときに、大和の田舎で、「五條御政府」まで建てて騒いでいた。
五條代官所を襲撃した天誅組は、吉野の山中でキコリをする十津川郷士に声をかけ1000人を超す大部隊になった。
「次は高取城を落としてやる」
勢いに乗る天誅組に比べて、高取藩兵は150人。城の中で皆、震え上がっていたと思う。
この譜代大名の高取藩植村家は偶然にもブリキトースと呼ばれる大砲を持っていた。
それは大坂夏の陣で大阪城攻略のため作られた物で、淀様と秀頼公を震え上がらせた例の大砲である。
1615年、大阪夏の陣で使った6門の巨砲全てを徳川家康は高取藩にさずけた。それから約250年、一度も使われていなかったらしい。
各砲ごとに大砲方という役があり200年間もの長きに渡り、俸禄をもらい、子を生み、受け継いできた。
たった一門の砲を撫でさするだけで、6つの家は、禄をもらい子々孫々生きてきた。
その6つの家は互いに牽制し合い、他家の大砲には触れないという掟があったそうだ。
どの大砲方の家も、200年のあいだ、口伝で火薬の調整法を伝えている。ただ一つの家を除いては、火をつけても爆発せず、実際は何の役にもたたなかった。
しかし、笠塚新次郎という緒方塾で学んだ者だけが、新知識の火薬を使い、轟然と砲口から火をふき、撃ちまくった。
笠塚家のブリキトースの大砲で天誅組は壊滅してしまう。
今回は歴史小説みたいになってしまい、纏まりがない感じなので、これにて。
ⅴ.天誅組の変 後編
東吉野村に引越して1年半が経とうとしている。
前回は歴史小説みたいになってしまい、不評かと思いきや、以外と好評だったので、今回も天誅組の第2弾を書きたいと思う。
ここ東吉野村には、天誅組が最後に殺された場所であり、そのお墓やその時の状況は見かけるが、天誅組の彼らがどのように戦い、どんな思想を持っていたのかというところが、あまり知られていないと思っている。
偉そうな文体に見えて、大変恐縮なのだが、僕の書いている情報元は、ほとんどが司馬遼太郎の「おお、大砲」という短編小説からである。偏った見解と思われたら、ごめんなさい。
前回は、高取城にて天誅組が壊滅状態になったところまで書いた。その壊走した天誅組の損害は後から調べると、なんと十津川郷士1人のみで、しかも崩れたった味方の、足に踏まれて死んだものであった。
そもそも天誅組は公卿の子(中山忠光19歳)に支配された浪人達と十津川郷士というキコリの集団である。
高取城攻撃は戦史にまれな、愚かな攻城法をとることになった。
高取城へ登る細い道を行列で攻めていく。行列で攻めるという事は、後ろの者が戦闘できない。
極端に言えば1000人もの縦隊の先頭数人だけが城の敵と戦っているようなものであった。後ろの者はただ行列を作って見ているだけである。
江戸幕府250年もの間、誰も戦争を経験していないので仕方のないことかもしれない。城を先頭に1,000人の行列が並んでいる状況で、あのブリキトースの巨砲が火を噴いた。
四分五裂した天誅組の敗兵は、その日没まで南大和のあらゆる村道で見られたというから、よほど手ひどい潰走だったらしい。
十津川郷士は天誅組を天朝様の軍だと思っていた。しかし、数日前に政変があり、ただの暴徒であると知らされ、ほとんどの者が憤慨して帰ることになる。
そして奥大和に逃げ込んだ天誅組の浪人隊士は戦死、自害もしくは刑死の運命をたどることになる。このくだりは、東吉野村ではよく知られている。
さて天誅組が壊滅したこの東吉野村からアントニオ猪木の言葉を送りたい。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ」
ⅵ.峠の水
東吉野村に移住して1年半が過ぎようとしている。
今日は雨が止んだので、久々に家から三尾の田中酒店まで山道を走った。59分43秒、コースレコードの更新である。
生ビールを頂きながら、酒店の大将との会話が興味深く感じたので少し書きたい。酒屋の大将は、
「佐倉峠の水はどこに流れるか、知っちょるか?」
と聞いてきた。佐倉峠とは東吉野村の入口である。国道166号線でほとんどの人はここを通って行き来している。
この佐倉峠だが、南向きは鷲家川を伝って高見川、吉野川そして紀ノ川が紀伊水道に注ぐ。これは分かる。
よって北向きは、大和川水系かなと思い、その様に答えた。しかし、酒屋の大将は、
「それが違うんよ。室生の方に流れて名張川に出る、この名張川ちゅうのは淀川水系で大阪湾までいっちょるわけや」
と教えてくれた。後で調べると、本当に川は京都・大阪府境辺りで北東からの宇治川(淀川水系本流)、北からの桂川と合流し、淀川となっていた。
奈良県宇陀市から東へ、三重県に入り、北上して京都まで、ぐるっと回って大阪にたどり着く。複雑な地形でかなり遠回りしている様が感慨深い。
いつも通る佐倉峠の水は、それらルートを伝って大阪湾まで至るということである。
今回のシリーズはこれにて完にする。また郵便の仕事や「あいの家」というNPOのボランティアを新たに始めようとしているが、それらは今度書こうと思う。
最後にアントニオ猪木の言葉で締めたいと思う。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。」
完