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親父とオカンとオレ 1 〜教員住宅からの引越し〜
この前、実家へ帰った時に親父が著しく老けこんでいて驚いた。
そして、オカンの様子が明らかに悪化しており、もうほとんど、しゃべれない状態である。コロナ禍も相まって、面会ができない。何もしてやれないもどかしさで、自分に腹が立つ。
そんな両親に対して、少しでも元気を出してもらいたい、この想いが強くなり、2年前から手紙を書いて送っていた。不定期だが毎月1話づつ送り続けた。これらを編集したので、noteに綴ろうと思う。
自分で建てた持家に住む。これが彼の人生最大の目標であり、40を過ぎて、まさしく叶えた夢でもある。
「借家の大工だと馬鹿にされる!」
と親父が昔、よく言っていた記憶がある。
僕が高校生の時に引越しをしたので、その家はもう四半世紀の月日が経ち、少し古びた感が拭えない。
通常は木造二階建てを造るのに3〜4ヶ月で、できるというが、彼は3年の月日を掛けて完成させた。
これには少々事情がある。僕が中学生の頃、親父は狭心症みたいな症状で一時期、家で寝たり起きたりの生活を送っていた。
いろんな病院に診てもらったが、病名すら分からなかったらしい。
恐らくバブルの時代にひたすら働き続けた体が、悲鳴をあげたのだと思う。
それは毎日寝たきりの状態ではなく、体調のいい日はリハビリを兼ね、1人でコツコツと自分の家を造作するという状況であった。
それが3年もかかった理由である。
祖父も大工で、九つ上の伯父も大工だから必然的に自分も大工になった。と親父が酔っている時に何度か聞いた事がある。
「ワシは中学を卒業したらすぐに働いた」
それが親父の口癖だった。詳しくは働きながら夜間の定時制高校へ通っていたのだ。
千葉の伯母さん曰わく、勉強が出来なかったから定時制の高校しか受からなかったのだと。
中学の同級生であり当時、農協の事務員をしていた母と出会い、結婚した。そのおかげで町立の教員住宅に住むことになる。
当時のことは両親からあまり聞いたことが無いが、一つだけ覚えている話がある。
中学の母の成績が良かったので、もし結婚したなら、自分より頭のいい子供ができるはず。
自分に似た頭の悪い子供を作りたくない、そんな想いから結婚を申し込んだのだと。
そして住むことになる新居だが、この教員住宅は家賃が無茶苦茶安かった。
確か月5,000円程だった気がする。田舎によくある型の建物だと思うが、少し分かりにくいので説明しよう。
2階建ての4軒が連なる長屋で、それが5棟並んだ形の団地である。
1階は4畳半の居間と狭い台所、シャワーのない風呂、そしてボットン便所がある。
2階は5畳の和室が2間、襖で仕切られている。間取りでいうと2LKなのかもしれない。
そして車を1台だけ停められる程のスペースが庭として付いている。
僕が小学生の頃は、友達の家よりもかなり貧乏だと思っていたが、今から思えば破格の家賃で、これだけの所に住めればラッキーと思う他ない。
一度だけ親父から聞いたことだが、結婚前にこの団地が造られる頃、町中から応募が殺到したというが、真実の程は定かではない。
教員住宅なのになぜ農協の職員が入れるのかと、疑問に思うかもしれないが、役場に勤めてる人や消防士の方もいたので、恐らく公務員であれば、誰でも入居できたのだと思う。
親父は職人であるが故に、同じ職人仲間のことを、良く思っていなかったようだ。
学校の先生や役場に勤めている人が、周りにいる環境で、子供を育てたいと思ったのかもしれない。
この話の大半は役場に勤めておられる木村さんという方が、親父とよく酒を飲んでおられ、そこで話していた内容を子供ごころに覚えたものである。
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