サウナ小屋を作るまでの道⑧
前回は歴史小説みたいになってしまい、不評かと思いきや、以外とスキをいただいて、もっと詳しく知りたいという意見も頂戴した。
なので、今回は天誅組シリーズ第2弾を書きたいと思う。
東吉野村なので最後に殺された場所や状況などは多々見かけるが、天誅組の彼らがどのように戦い、どんな想いを持っていたのかという本質的なところが、実はあまり知られていないと思っている。
偉そうな文体に見えて、大変恐縮なのだが、僕の書いている情報元は、ほとんどが司馬遼太郎の「おお、大砲」という短編小説からである。偏った見解をしていたらごめんなさい。
笠塚新次郎の大砲で天誅組は、壊滅状態になったところまで前回書いた。その壊走した天誅組の損害は後から調べると、十津川郷士1人のみで、しかも崩れたった味方の足に踏まれて死んだものであった。
そもそも天誅組は公卿の子(中山忠光19歳)に支配された浪人と十津川郷士というキコリの集団である。
高取城攻撃は戦史にまれな、愚かな攻城法をとることになる。
高取城へ登る細い道を行列で攻めていく。行列で攻めると、後ろの者は戦闘ができない。極端に言えば1000人もの縦隊の先頭数人だけが城の敵と戦っているようなものであった。
徳川幕府250年もの間、誰も戦争を経験していないので仕方のないことかもしれない。城を先頭に1,000人の行列が並んでいる状況で、あのブリキトースの巨砲が火を噴いた。
四分五裂した天誅組の敗兵は、その日没まで南大和のあらゆる村道で見られた、というから、よほど手ひどい潰走だったらしい。
十津川郷士は天誅組を天朝様の軍だと思っていた。しかし、数日前に政変があり、ただの暴徒であると知らされ、憤慨して帰ることになる。
奥大和に逃げ込んだ天誅組の隊士のほとんどは戦死、自害もしくは刑死の運命をたどるこのくだりは、東吉野村ではよく知られている。
さて、昨日から今日にかけて雨なので、サウナ小屋作りに進展はないが、天誅組が壊滅したこの東吉野の地からアントニオの言葉を送りたい。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」
https://twitter.com/bantaku6?s=21&t=wUfRy6LQ4cWJUooaiKfMoQ