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東吉野村 移住滞在記⑤ 〜 天誅組の変 後編 〜

東吉野村に引越してもうすぐ2年が経とうとしている。

前回は歴史小説みたいになってしまい、不評かと思いきや、以外と好評だったので、今回も天誅組の第2弾を書きたいと思う。

ここ東吉野村には、天誅組が最後に殺された場所であり、彼らのお墓やその時の状況は、目にしたりするが、天誅組の彼らがどのように戦い、どんな思想を持っていたのかというところが、あまり知られていないと思っている。

偉そうな文体に見えて、大変恐縮なのだが、僕の書いている情報元は、ほとんどが司馬遼太郎の「おお、大砲」という短編小説からである。偏った見解と思われたら、ごめんなさい。

前回は、高取城にて天誅組が、壊滅状態になったところまで書いた。その壊走した天誅組の損害は、後から調べると、なんと十津川郷士1人のみで、しかも崩れたった味方の、足に踏まれて死んだものであった。

そもそも天誅組は、公卿の子(中山忠光19歳)に支配された、浪人達と十津川郷士という、キコリの集団である。

高取城攻撃は戦史にまれな、愚かな攻城法をとることになった。

高取城へ登る細い道を、行列で攻めていく。行列で攻めるという事は、後ろの者が戦闘できない。

極端に言えば1000人もの縦隊の、先頭数人だけが、城の敵と戦っているようなものであった。後ろの者は、ただ行列を作って見ているだけである。

江戸幕府250年もの間、誰も戦争を経験していないので、仕方のないことかもしれない。

城を先頭に1,000人の行列が、並んでいる状況で、あのブリキトースの巨砲が火を噴いた。

四分五裂した天誅組の敗兵は、その日没まで、南大和のあらゆる村道で、見られたというから、よほど手ひどい潰走だったらしい。

十津川郷士は、天誅組を天朝様の軍だと思っていた。しかし、数日前に政変があり、ただの暴徒であると知らされ、ほとんどの者が憤慨して帰ることになる。

そして奥大和に、逃げ込んだ天誅組の浪人隊士は戦死、自害もしくは刑死の運命を、たどることになる。このくだりは、東吉野村ではよく知られている。

さて天誅組が壊滅したこの東吉野村から、アントニオ猪木の言葉を送りたい。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ」


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