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【長編コラム】 反面教師の山行き (全8話 7,600文字)

1

徳島の山奥に大歩危(おおぼけ)、小歩危(こぼけ)という渓谷があり、そこから山を越えた祖谷の村に住んでいた頃の話を書こうと思う。

ラフティングという仕事でその山奥に住み始めたのだが、週末の2日間しか、お客さんが来ない日々が続いていた。

最初の頃は、仲間とラフティングのボートで川を下ったり、1人でカヤックの練習をして、スキルアップに努めていた。

しかし、客を乗せないとお金にならないので、山菜を採ったり、畑で野菜を作って何とかしのいでた。

山師と呼ばれるキコリの仕事をされている人が周りに何人かいた。その中の1人、国さんと呼ばれる親方から声がかかった。

「暇しとんやったら、山行かんかえ?」

杉や桧の木を伐採する仕事だと言う。当時の僕は、二つ返事で

「明日からお願いします」

と答えていた。山師の仕事は朝が早い。弁当を持って7時に親方の家まで行き、トラックに乗り換え現場へ向かう。

現場にはもう1人、地元の山師のおじさんが来ていた。

だいたいはこの3人で仕事をする。ラフティングの予約が入っている日はその仕事を優先させてもらっていた。

雨が降ると山師の仕事は、休みになるのだが、多い時は週に5日、親方のところでお世話になった。

山師の仕事は多岐にわたる。まずはチェーンソーを使った伐採。50〜60年生の杉、または桧の立木を根元から切る。

後で伐採方法を説明しようと思うが、20町歩の山を皆伐するという壮大なスケールの仕事であった。

「あの見えてる向こうの山のてっぺんから、谷を挟んでこっちの山まで全部や」

と親方はざっくり説明してくれた。1町歩が約1ヘクタール(100m×100m)なので、20町歩はだいたい縦に500メートル横に400メートルといったところか。

要は全て伐り倒す。これが最大の使命であって、

「倒す方向がどうのこうのなど、細かいことはまだ気にするな」

と初日の数時間だけ、親方にチェーンソーの使い方と伐採方法を教えてもらった。

「失敗を経験して、覚えていくもんや」

これが国さんのスタイルで、男らしく、いさぎよい感じが好きであった。

4年に渡って経験した山での出来事を少しずつだが思い出しながら綴ろうと思う。因みに今住んでいる吉野地方では山師の事を山行きと言う。


2

2004年に徳島県の山奥、祖谷(いや)村で山師の仕事をはじめた。世間一般では、林業と呼ばれ、森林組合や大きな資本のある会社がやっている事業とやり方は違うが木材の素材生産というゴールは同じである。

大きな違いは、大人数でやるか、3人で全てを終わらせるかという所だと思う。自分は山師の方法しか知らないので、それを少しずつ紐解いていこうと思う。

前回の伐採の方法について、もう少し詳しく書こうと思う。教科書には、

「ロープと滑車を使って一本一本倒す方向に引っ張る」

などと書かれていたりする。

しかし、3人で20町歩の山を切って出すことを考えればその方法では到底無理だ。

谷に向かって勢いよく伐り倒す。これを親方から教えてもらった。吉野林業では山側に倒すと言われているから真逆の方向である。

「受け口なんか下に向いてて、三角やったらええねん」

と講習では2時間以上かけて、説明するところを10秒で終わらせ、実際にやって見せてくれた。そして2本目を

「拓よー、伐ってみるか?」

といきなり僕にやらせてくれた。

生まれて初めてのチェーンソーは直径40センチ程の杉を伐り倒した。木を切り倒す方法として受け口・追い口・ツルという基本的な技がある。

それぞれ極めるには、それなりの年月は必要かもしれない。しかし、谷側に伐り倒すのは基本的にそれほど難しくない。

伐倒方向に受け口を作る、それの反対側から追い口を入れ始め、チェーンソーの歯の2枚分くらいまで切り進むとクサビを入れ込む。

このクサビというのは薄いくさび形の道具で強化プラスチックで出来ている。堅い木で作ってもいいのだが、すぐに割れるので市販の物を使う。

これをセットハンマーで打ち込むのが、伐倒では1番大変な作業である。ちなみにこのクサビを入れずに切り進むとチェーンソーの刃が挟まれ悲惨な事になってしまう。

この初歩的なミスはベテランでもやらかす事があり、その対応はまたの機会に書きたい。

立木の伐倒という作業では、チェーンソー、クサビ、セットハンマーがあれば何とかなりそうだ。そして、腰に鉈(なた)と鋸(のこ)をぶら下げるのが祖谷の山師のスタイルである。

これは立木を切る際に邪魔になる下草を刈ったりするのにも役に立つ。

もう一度だけまとめよう、肩にチェーンソーを担ぎ、腰袋にクサビとセットハンマーを入れ、鉈と鋸をベルトにぶら下げる。

これで一人前の山師の出来上がりである。



2004年に徳島県の山奥、祖谷村で山師の仕事をはじめた。前回は立木の伐倒方法とその格好について書いた。今回はもう少し詳細を書こうと思う。

基本的に杉などの立木を谷側へ伐倒するのは簡単である。なぜなら、枝は斜面に沿って生えており、立木の荷重は谷側にかかっているからだ。逆に山側に倒すのは、とても大変である。


基本的に立木の直径の4分の1を目安に受け口を作り、その反対側から追い口を入れていく。

前回にも書いたが、ある程度切り進むとクサビを打ち込む。追い口はなるべく水平に切っていくのがポイントである。

チェーンソーの刃の長さが18インチ(45センチ)だったので、それ以上の太い幹を切る場合は、途中で左右を入れ替えなければならない。直径が90センチまでの立木は切れるということだ。


そしてクサビも2本、3本と必要になることもある。当初は、セットハンマーを使っていたが、大径木を主に切るようになるとクサビを打ち込むのは斧を使うようになる。

斧の刃先ではなく斧頭と呼ばれる刃の反対側でおもいっきり叩く。

「斧を担いどるとこ見ると、ホンモンのキコリみたいじゃな」

と友達によく言われた。ここでもう一度、山師が伐採で山に入る身なりを見て見よう。まずチェーンソーと斧を肩に担ぐ、そして腰袋にクサビ、ナタとノコをそのベルトに吊るして歩く。

あと、ガソリンを4リットル2本、チェーンオイル1リットル。そしてお弁当と水筒を持って山に登る。

車から現場まで、1時間以上かけて歩く場合もあるので、車に戻る行為は2時間の無駄となる。

「林業は危険な仕事だ」

とよく言われた。確かにそうであろう。

重装備のいで立ちをして足場の悪い急傾斜で作業をする。天候は変化して、現場の状況は常に変わる。

前に少し触れたが、ある教科書ではこの状況でロープと滑車を使って倒木すると書いてある。

机上の空論とはこのことで、実際に現場でそれをやろうとすれば、3倍の人手と時間が必要となる。

森林組合や資本のある企業では、可能かも知れないが、3人しかいない我らには到底無理であった。



2004年に徳島県の山奥、祖谷村で山師の仕事をはじめた。約20年前の当時を綴ろうと思う。

前回まで伐採の話を主にしてきたので、今日は弁当の話を書きたい。当時は山小屋のような所で一人暮らしをしていた。

その頃の僕は自炊の経験が乏しく、ラフティングの仲間ともたまに会う程度で、近くにご飯を作ってくれる人はいなかった。

そんな僕の弁当作りだが、まず炊飯器のタイマーをセットすれば、翌朝に炊き立てのご飯が食べられるのを知る。

また、朝起きてすぐにコーヒーを飲む習慣があった。インスタントの味噌汁を大量に買い溜めて、コーヒーと一緒に作った。

自炊を始めた頃に作っていた、土方弁当と呼ばれる物を添付して説明しよう。


一番底にインスタントの味噌汁、そして大きい器に白ご飯。さらにオカズを入れるであろう容器の中に缶詰めを入れていた。

最速2分で出来る弁当の完成である。缶詰だと容器を洗う必要もない。冬場に焚火で暖めて、さばの味噌煮缶と食べる弁当は、最高に美味しかった。

「缶詰めばっかり食っとらんで、アマゴ釣りんさい」

と親方が家の前の川でアマゴを釣ってきた。アマゴはとても賢い魚で、人影を見ると食い付かない。岩に隠れるようにして釣る方法を覚えた。

仕事から帰って日暮れまでに5、6匹は釣れるようになった。この経験が今でも生きている。

冬になって、魚が釣れなくなった頃、

「拓よー、追い山行かへんかえ?」

と親方が犬と一緒に猟へ連れて行ってくれた。国さんは地元の猟師として有名で、犬を5匹も飼っていた。

一面真っ白な銀世界の雪山では、虫の音ひとつ無く、ひたすら静寂が広がっている。そこに発信器をつけた猟犬と一緒に並んで歩く。

犬と自分の呼吸する音だけが、静かな森に聞こえていた。

「猪の足跡を見つけたぞ」

と誰かが言った。親方は皆んなの持ち場を決め、犬を放す。すると静寂の世界から一転して、凄まじい喧騒がひろがった。

けたたましく吠える犬と牙を剥いた猪の命を賭けた闘いである。

さっきまで優しく接していた犬たちが、目を血走らせて、何倍も大きな猪相手に飛びかかっていった。

「早く撃て!!」

と無線で親方から指示が出るが、僕は手が震えて狙いが定まらない。

「ズドーーン」

耳が裂けるような音がした。そして猪は頭から血を流してバタンと倒れる。後から駆けつけた猟師が撃ってくれたのだ。

群がる犬を払い除け、剣なたでトドメを刺す。心臓から血を抜きとるのだ。

真っ白な雪の上を大量の血が流れ、苦しそうにしていた猪の息が絶えた。

雑木の棒に猪の手足を縛りつけ、担いだり、引きずって軽トラまで持って帰った。

5

2004年に徳島県の祖谷村で山師の仕事をはじめた。前回は狩猟の話が以外に高評価を頂いたので、猟の続きを書きたい。

祖谷の村にも狩猟期間があり、10月から2月末までが追い山と呼ばれる猪狩りができる。

また、年末に雪が積もり始めるので年明けから2月末までは毎日犬を連れて猪狩りに出ていた。

「追い山は犬しだい」

と親方は何度もその言葉を口にした。この猟犬は自分たちでリーダーを決め、団体で行動する。

そのリーダーの良し悪しで捕獲の量と質が分かれるらしい。

少し小柄だが人懐っこい紀州犬がいた。名前はハル。自分より大きい4匹を従えて、猟に出れば決まって獲物を捕まえた。

彼らは20から30キロの体重で、100キロを超す猪に立ち向かっていく。しかも猪の牙は鋭く、まともに闘えば勝ち目はない。

それでも血走った目をして、果敢に飛びかかっていく姿はとても恐ろしく見えた。

僕は何度か犬を病院に連れて行った。猪の牙で腹を裂かれ、何針も縫う手当てを受けたこともある。

「追い山は犬しだい」

ある日ハルが怪我をして一時期、療養していた。その間は別の犬がリーダーとなり、猪を追ったが、捕獲出来ない日々が続いた。

たまに獲れても小さい猪であった。

そうしてハルが戻ってきた。他の4匹の動きが違って見える。すると大きな獲物をやっぱり捕まえてきた。

「ハルがおらな、追い山にならんわい」

と親方の横でシッポを振るハルは猟師たちを和ます力も優れていた。剣山の麓は国立公園の原生林が広がっている。

その日は少し遠出をして追い山することになった。

大きな猪の足跡を見つけて、親方は犬を放した。ハルが先頭で4匹の猟犬が続いて走る。

ところが、いつまで経っても犬の鳴き声がしないのと発信器が届く距離を超えてしまっていた。

車で走り回って探したが、見つからず、その日は帰る事になった。それから数日は無線機を持っていろんな所で探した。

しかし見つからず、諦めかけた7日目にひょっこり5匹の猟犬が帰ってきた。

「こんのど寒い中、どこほっつき回っとったんや」

と親方に怒られるハルの姿は、雪山の中、何日も旅をしてきて、とてもたくましく見えた。




2004年に徳島県の山奥にある祖谷村で山師の仕事をはじめた。因みに、この年に熊野古道がユネスコの世界遺産に登録された。

皆伐という山にある全ての木を伐り倒した後の工程を書こうと思う。

谷を挟んで両側の山の木が全て倒されている状態で、集材機を使って木を集める。まず、この架線の構築から見ていきたい。

ロケット屋さんと呼ばれる2人組がやってくる。そして土場から谷向こうの山に向けて打ち上げ花火の巨大な物をセットしていた。

「山の上の方まで撃ち込んでくれんかねー」

と親方は彼らの作業を見ながら言った。この大きなロケット花火には、ナイロンロープがついていて最初に張るワイヤーロープの代わりになる。

「ドッカーン!」

大きな音の割には角度が甘かったか、

「国さん、すんまへん。.....思ったより下やった、、、」

一気に機嫌が悪くなった親方は

「拓よー、おまんが行って上げてこい」

と僕は川を越えてロケット落下の地点まで登った。さらにロケットについてあるロープを引っ張りながら、山の尾根近くまで上げた。

その辺り一帯はアンカーをとるため立木を残してある。とりあえず適当な木を選んで滑車を取り付けナイロンロープを引っ張った。

そして、その途中に3ミリ程の細いワイヤーロープがつけてあるので、その先端がきたところで引っ張るのを止める。

次は滑車にワイヤーロープを通し直して、ナイロンロープを逆に引いてもらう。土場には集材機という装置があり、ここからは基本的にそれが全てを操作する。

またワイヤーロープが通れば徐々に太い物に換えていく。それに伴い山上のアンカーもより強固な物にしていく。

索張り(さくばり)と呼ばれる架線の構築は山師の仕事の中でも一番難しく、危険であった。僕は何度も経験してるうちに勉強して、この4年後に架線技師の資格を取らせてもらった。


この書いている現場は僕が初めて経験した頃の事で、当時は何もかもが新鮮でとても印象に残っている。

またの機会に集材作業や架線でワイヤーが切れた時の話を書ければと思う。


7

2004年に徳島県の祖谷村で山師の仕事をはじめた。この年の10月に新潟県中越沖地震が起きる。

今回は集材機(ウインチ)を使った架線集材について書こうと思う。

索張り(さくばり)を終え、丸太を集める最初の作業はとても緊張する時間である。

無線のトランシーバーで、ウインチを操作する山師のシゲさんと重機に乗る親方、荷掛けの僕が声を掛け合う。

「おろしてー!」または、「下げー」

と無線で言うだけで搬機が止まり、それについている滑車とワイヤーが降りてくる。

そして倒れている丸太をワイヤーで結んで、合図を送る。

「上げ〜」

と、この言葉1つで丸太は宙に浮き、搬機に吊られて土場まで一直線に運ばれる。


また、土場には親方がプロセッサという重機に乗って、運ばれてきた丸太を造材する。

「昔は、一本一本、手で寸法してチェーンソーで切っとったんやで」

と親方はこのプロセッサーが林業のやり方を変えたと言っていた。50年生の杉は約25メートルあり、4メートルで玉切りしたら5本は取れる(先端の部分は切り捨てる)

この作業をユンボのグラップルとチェーンソーでやっていたら、2人で30分はかかってしまう。もちろん枝払いもしなければならない。

それをプロセッサーは30秒でやってしまう。林業界の革命が起きたのだ。


話を僕の担当する荷掛けの作業に戻そう。木を切り倒した後の斜面は非常に歩きづらい。

しかも立木があれば、木陰で休むこともできるが、皆伐なので、砂漠のように日陰がない。

冬でも山の直射日光は、とても暑く感じるので、真夏の集材は死ぬほど暑かった。あと虫をはじめ、蛇や蜂との闘いでもある。

そんな中、マムシが出ればラッキーと思うようになった。ウインチ乗りのシゲさんがマムシの捕まえ方を教えてくれたのだ。

頭が三角で灰色のしま模様が特徴のマムシは生きたまま捕まえて、ペットボトルに入れて持って帰る。そして2週間、水だけを与えて飼育する。

その間、毎日水の交換をしてマムシの体内を綺麗にしなければならない。ちなみにマムシは1ヶ月水だけでも余裕で生きている。

水を毎日交換して2週間後、焼酎の一升瓶にマムシを移したらマムシ酒の出来上がりである。これが1万円から2万円で売れた。

2,000円の焼酎が2万円になるので、マムシを見つけては必死で捕まえるようになった。

「拓よ〜、水を換えるときは気をつけなやー」

とシゲさんに注意を受けていたが、ペットボトルの蓋を外し、水を棄てる隙に台所で逃げられたこともある。

その日の晩は、寝る前、ベットの周りにマムシがいないか気になって仕方なかった。そして、酒に酔った状態で水を換えるのはやめようと心に誓った。

8

2004年に徳島県の山奥にある祖谷村で山師の仕事をはじめた。前回まで伐採、架線の索張り(さくばり)と集材の作業について書いた。

今回は作業道について書こうと思う。林内作業道には2つの種類がある。

1つはトラックなど、車両が通行できる道のことで、四駆の軽トラを走らせようとすれば、2メートルの道幅は欲しい。

2メートル幅の作業道を作るには3トンのユンボが最適である。切り株を抜き取ったり、盛り土をしたり、ユンボ1台で大体の道は出来る。

尾根筋を使って作業道を作れば、崩れることが少なかった。傾斜が急な場所はヘアピンカーブをきっていく。

現場が皆伐する山なので、土場から尾根への道を1本だけ作った。

もう1つは人が歩いて通る道で、クワ1本で作る。クワで山側を少し掘っただけの道だが、何度も通ることによって日々、強固なものになっていく。

「拓は山を歩くの早くなったなー」

と言われるようになったのは、クワで道をつけたからだと思う。ケモノ道とそのクワで作った作業道では、歩く速度が違ってくる。

最近だが、自伐型林業という講習会に行ってきた。こちらは2メートルから2.5メートルの作業道を高密度に張りめぐらせるといった新しい施業方法に興味をそそられた。

あと、皆伐は山にとってよくないと謳われており、それは山師の経験した者として納得がいくものである。



ここまで真面目な話ばかりで面白くないと思うので、祭のことを少し書きたい。

夏祭りといえば徳島は阿波踊りである。徳島市では100万人が踊り狂うと言われているが、西の郡部では池田町で2日間に渡って行われる。

商店街にパイプ椅子を並べて、観客がちらほらいるが、

「踊る阿呆に見る阿呆、
  同じ阿呆なら踊らなそんそん」

と見ているより踊った方が絶対に楽しい。地元の連に所属し、この日のために練習して本番を迎えた。

「おりゃ〜、こっちが先に並んどんや」

とヤンキーたちの喧嘩を連長がたしなめて、商店街を踊り歩く。

鉦(かね)と三味線と大太鼓が踊りのリズムをリードして、篠笛がメロディを奏でる。

「ドン、ドドーン、ドン」

大太鼓の腹の底に響きわたるダイナミックな音は、躍動感やその激しさでさらに踊りをもりたてる。

「踊る踊りは阿波踊り
  ア、ヤットサー、ア、ヤットヤット」

とお囃子が踊りを浮かせ、かけことばで大いに盛り上がる。声が枯れるくらい声を出して、体力の尽きるまで踊り狂った。

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