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マッカーサーとシベリア[全2900文字]

自分のルーツとされる父方の祖父と母方の祖父との思い出を、脳を振り絞って書くことにしよう。


1

まずは母方のお爺さんの話を書きたい。

「わしはマッカーサーに警察官を辞めさせられたんやー」

というのが母の父親、通称"高川原のお爺さん"である。私が子供の頃、近くの警察署へ祖父に連れられ行った思い出がある。

署長室まで通され、かなりのおもてなしを受けたように感じた。

「ご無沙汰です。お元気でしたか」

「そうやな、今日は孫を連れて来たんや」

こんな会話をしたのか全く覚えていないが、帰りは署員の方が敬礼して見送ってくれた。

明治45年生まれの祖父は、その当時71か72だから、今の両親と同じ歳ごろになる。

話を戻そう。高川原のお爺さんのことを昭和のプー太郎と名付けてよいものか。昨今、プー太郎といえば仕事をしない男が巷では溢れている。

戦後すぐから、それを貫ぬき通してきた祖父は、もはや元祖の称号を与えてもいいのではと思う。

私が22歳の頃、オーストラリアから帰って、フラフラしていた時期に親父からよく

「お前は高川原のじいさんそっくりだ」

と言われていたのを思い出す。

ここからは"高川原のお婆さん"に聴いた話を元に進めていこう。母の実家は元々、その辺りいったいの土地を持っていたらしい。

しかし、じいさんが売っては使い、使っては売るといった散財が凄かった。なかでも後に、某大企業の工場になる土地を二束三文で売り飛ばした。という話は何度も聞かされた事である。

明治45年生まれだから、戦争の召集がかかったのが30歳前後と思われる。比較的裕福に育ったじいさんは

「この年で軍隊かぁ...」

と思ったであろう。しかし赤紙が届いて、徴兵検査の前日に祖父はとんでもない行動を起こす。

なんと、醤油の一升瓶を丸ごと一気に飲み干すという、奇怪な行動をとった。そして検査当日、祖父の体調は誠に最悪の状態で、

「起立!こらお前、真っ直ぐ立て!」

と言われても、なかなか立てなかったらしい。

結果、徴兵に行かなくてよかった。そして駐在所で戦時中の治安を守る警察官になった。というのが祖父の経歴である。

2度も徴兵されて戦地に行き、最後はシベリアで拘束されて帰ってきた父方の祖父とは真逆の人生である。

戦時中の警官は天皇陛下の悪口を言う者や戦争に批判的な者を容赦なく捕まえた。そのため戦後すぐ、マッカーサーにより全員クビになったらしい。

売れる土地や建物にも限度がある。3人の子供を抱えて必死に働く祖母にまで無心してくるようになった。

当時の祖母は裁縫が得意で、着物を洋服に作り替える作業場をつくり、2、3台のミシンを購入して身内で商売をしていた。

そこに現れた元祖プー太郎の祖父は、あろうことか、そのミシンを売り飛ばすという、破天荒な男であった。

私が小学4年の頃に高川原のじいさんと大喧嘩をしたことがある。

弟が何かをやらかしたので、私は彼の頭を叩いた。すると祖父は

「頭を叩くのはよくない!」

と平手で私の顔を叩いた。それに怒った私は

「高川原のクソじじい!」

とそこら辺にある物を投げつけて戦争をふっかけた。

それに応じて、投げ返してきたじいさんと私の戦いは、弟の泣き叫ぶ声によって終息することができた。


2

次に親父のお父さんである、第十のお爺さんについて書きたいと思う。

「ワシはシベリアに3年もおったけんのう」

親父とは対照的に、いつも朗らかで、ゆっくりと喋る第十(だいじゅう)のお爺さんを私は本当に大好きであった。

祖父は第十の家に、婿養子としてやってきた。

どこかの親方の所で、丁稚奉公に入り年季が明けて、大工職人として独立した頃であろうか、第十のばあさんと出会い結婚した。

そして5人の子宝にも恵まれた。

大正生まれの祖父の人生は、決して平凡には終わらない。

結婚して間もなく、戦争が始まり祖父に徴兵令が出た。

「お国のために行ってきます」

と祖父はノミとトンカチを置き、腰に水筒をぶら下げ、銃を担いで歩き出した。

どこで訓練を受けたのか知らないが、何にせよ陸軍の南方作戦に参加し、マレー半島までやってきた。

「昼間は暑くて倒れそうじゃった」

灼熱の太陽の下で理不尽な上官からのシゴキにも耐えた。何とか2年で祖父は任期を終え、無事に帰ることができた。

日本に帰ってからの祖父は、千葉の伯母さんを始め3人の子供をもうける事になる。戦況がどんどん悪化していた時期であったが、祖父にとっては幸せな日々が続いていた。

普通なら一度でも戦争に行けば、もう絶対に行きたくないであろう。周りからも

「二度目はない」

と言われていた。そんな祖父の状況を一変する事態が起こる。なんとまた、召集令の赤紙が家に届いたのだ。しかし、第十のお爺さんは

「お国のためなら、行ってきます」

と時代が、そうさせたのか。幼い子供たちを残し、再び祖父は、ノミとトンカチを置いた。

そして腰に水筒をぶら下げ、銃を担ぎ、また歩き出した。戦地に向かう足取りは、さぞかし重かったであろう。

今度は北へ、満洲の関東軍に配置された。そして終戦間際、味方と思われたはずのソ連軍に攻め込まれる。

「凄まじい銃撃戦でなぁ、、」

と祖父は左スネをさすりながら喋った。

その銃撃戦で負傷したのだ。ソ連兵の銃弾が左足のスネを貫通したらしい。

「ここに穴があいてな」

とそこで何故か笑顔の第十のお爺さんは、幼い私に優しく説明してくれた。話を終戦の頃に戻そう。戦後の関東軍の末路は、悲惨な運命をたどることになる。

戦争が終わっても、ほとんどの兵隊は帰ることが出来ず、ソ連軍に拘束され連れて行かれた。

「いつもな、靴下を3枚履いておってな、それを順ぐり交換しよったんよ」

と祖父は、極寒のシベリアに連行され、3年もの間、強制労働させられる。
何人もの仲間が、飢えと寒さで亡くなった。

昨日まで共に働き、隣で寝ていた青年が次の日の朝、凍った状態で見つかることもあったという。しかし祖父は、日本に残してきた妻と幼い子供たちを想えば、死ぬ訳にはいかなかった。

絶対に祖国に帰ると強い意志を持つ者だけが生き残った。


一方、第十のお婆さんは、終戦から3年が経つのに、何の音沙汰もないので

「じいさんは、もう死んでしもうた」

と思っている。そして第十の集落の人間が、再婚を勧めてきた。ちょうど世話人と、お見合いの段取りをしている所に

「ただいまー、今、帰りました」

とひょっこり、第十のお爺さんが帰ってきた。村じゅうが大騒ぎになったそうだ。

「幽霊が出たー」

痩せ細り、古びた軍服を着て、玄関に立っている祖父の姿は、まさしく幽霊のように見えたであろう。

「足はついておる」

幽霊には足がないと、信じ込んでいた当時の家の人達は、少し左足を引きずりながらも、健気に歩く祖父の姿を見て、感激したのではないか。

この一連の出来事を、笑い話として、私の子供の頃に何度も聞いた記憶がある。

そして、その後、和歌山の伯母さんが生まれ、末っ子として親父が生まれることになる。

今でも実家に飾られている写真だが、ベレー帽をかぶり、右手に杖を持ち、ばあさんと仲良く、寄り添う様に並んでいる2人の姿が、目をつむれば浮かんでくる。

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