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【エッセイ】シベリア抑留とマッカーサー元帥

幼い頃に祖父から聞いた物語を敬老のプレゼントに両親へ送ろうと思う。

1.南方作戦


まずは、父方の祖父である、第十のお爺さんについて書きたい。

「ワシはシベリアに3年もおったけんのう」

と親父とは対照的に、いつも朗らかで、ゆっくりと喋る第十(だいじゅう)のお爺さんを僕は本当に大好きであった。

戦前、祖父は第十の家へ婿養子としてやってきた。

どこかの親方の元で丁稚奉公に入り、大工職人として独立した頃であろうか、第十のお婆さんと出会い結婚する。

そして5人の子宝にも恵まれた。

大正生まれの祖父の人生は、決して平凡には終わらない。

結婚して間もなく、戦争が始まり徴兵令の赤紙が届いた。そして祖父は、

「お国のために行ってきます」

とノコギリとトンカチを置き、腰に水筒をぶら下げ、銃を担いで歩くことになる。

どこで訓練を受けたのか知らないが、何にせよ陸軍の南方作戦に参加し、マレー半島までやってきた。

「昼間は暑くて倒れそうじゃった」

灼熱の太陽の下で理不尽な上官のシゴキにも耐えた。何とか2年で祖父は任期を終え、徳島の実家まで帰ることができた。

そして戦争から帰ってからの祖父は、千葉の伯母さんを始め、3人の子供をもうける事になる。戦況がどんどん悪化していた時期であったが、祖父にとっては幸せな日々が続いていた。

2.関東軍の末路


また、普通なら一度でも戦争に行けば、もう絶対に行きたくないであろう。周りからも

「二度目はないけんな」

と言われていた。だが、そんな祖父の状況を一変する事態が起こる。

なんとまた、招集の赤紙が家に届いたのだ。しかし、第十のお爺さんは

「お国のためなら、行ってきます」

と時代がそうさせたのか。幼い子供たちと愛する妻を残し、再び祖父はノコギリとトンカチを置いた。

そして腰に水筒をぶら下げ、銃を担ぎ、また歩き出す。戦地に向かう足取りは、さぞかし重かったであろう。

今度は北へ、満洲の関東軍に配置された。そして終戦間際、味方と思われたはずのソ連軍に攻め込まれる。そこで祖父は、

「凄まじい銃撃戦でなぁ、、」

と左スネをさすりながら喋った。

その銃撃戦で負傷したのだ。ソ連兵の銃弾が左足のスネを貫通したらしい。

「ここに穴があいてな、、、」

とここで何故か笑顔の第十のお爺さんは、幼い僕に優しく説明してくれた。

話を終戦の満州に戻そう。戦後の関東軍の末路は、悲惨な運命をたどることになる。

戦争が終わっても、ほとんどの兵隊は帰ることが出来ず、ソ連軍に拘束され、連れて行かれた。祖父は、

「いつもな、靴下を3枚履いておってな、それを順ぐり交換しよったんよ」

と極寒のシベリアに連行され、3年もの間、強制労働させられる。

そこでは何人もの仲間が、飢えと寒さで亡くなった。

昨日まで共に働き、隣で寝ていた青年が次の日の朝、凍った状態で見つかることもあったという。

しかし、祖父は日本に残してきた妻と幼い子供たちを想えば、死ぬ訳にはいかなかった。

「絶対に祖国へ帰る」

と強い意志を持つ者だけが生き残った。


3.幽霊の帰還


一方、徳島の第十のお婆さんは、終戦から3年が経つのに、何の音沙汰もないので、

「じいさんは、もう死んでしもうた」

と思っている。そして集落の人が再婚を勧めてきた。ちょうど世話人と、お見合いの段取りをしている所に

「ただいまー、今、帰りました」

とひょっこり、第十のお爺さんが帰ってきた。村じゅうが大騒ぎになったそうだ。

「ゆ、ゆう、幽霊が出たー」

痩せ細り、古びた軍服を着て、玄関に立っている祖父の姿は、まさしく幽霊のように見えたであろう。

「あ、足はついておるけん」

と家の人達は、幽霊には足がないと、信じ込んでいたが、少し左足を引きずりながらも、健気に歩く祖父の姿を見て、感激したのではないか。

僕はこの一連の出来事を、笑い話として、子供の頃に何度も聞いた記憶がある。

その後、和歌山の伯母さんが生まれ、末っ子として親父が生まれた。

今でも実家の写真にベレー帽をかぶり、お婆さんと寄り添う様に並んでいる2人の姿が、目をつむれば浮かんでくる。


4.徴兵検査


次は母方の祖父の話を書きたい。

「わしはマッカーサーに警察官を辞めさせられたけんね〜」

というのが母の父親、通称"高川原のお爺さん"である。僕が8才ぐらいだったある日、近くの警察署へ祖父に連れられて行った思い出がある。

署長室まで通され、かなりのおもてなしを受けたように感じた。

「ご無沙汰です。お元気でしたか」

「そうやな、今日は孫を連れて来たんや」

こんな会話をしたのか全く覚えていないが、帰りは署員の方が敬礼して見送ってくれた。

明治44年生まれの祖父は、その当時72か73だから、今の両親と同じ歳ごろになる。

話を戻そう。高川原のお爺さんのことを昭和のプー太郎と名付けてよいものか。昨今、プー太郎といえば仕事をしない男が巷では溢れている。

戦後すぐから、それを貫ぬき通してきた祖父は、もはや元祖の称号を与えてもいいのではないか。

僕が24歳の頃、オーストラリアから帰って、フラフラしていた時期に親父から、

「お前は高川原のじいさんそっくりだ」

とよく言われていたのを思い出す。

ここからは"高川原のお婆さん"に聴いた話を元に進めていこう。母の実家は元々、その辺りいったいの土地を持っていたらしい。

しかし、お爺さんが売っては使い、使っては売るといった散財が凄かった。

なかでも後に、某大企業の工場になる土地を二束三文で売り飛ばした。という話は何度も聞かされた事である。

明治44年生まれだから、戦争の召集がかかったのが30代と思われる。比較的裕福に育ったじいさんは

「この年で軍隊かぁ...」

と思ったであろう。しかし赤紙が届いて、徴兵検査の前日に、祖父はとんでもない行動を起こす。

なんと、醤油の一升瓶を丸ごと一気に飲み干す、という奇怪な行動をとった。そして検査当日、祖父の体調は誠に最悪の状態で、

「起立!こらお前、真っ直ぐ立て!」

と言われても、なかなか立てなかったらしい。病弱の男と思われたという。

結果、徴兵に行かなくてよかった。そして駐在所で戦時中の治安を守る警察官になった。というのが祖父の経歴である。

2度も徴兵されて戦地に行き、最後はシベリアで拘束され、帰ってきた父方の祖父とは真逆の人生である。

戦時中の警官は天皇陛下の悪口を言う者や戦争に批判的な者を

「容赦なく捕まえる、または吊し上げた」

そのため戦後すぐ、GHQのマッカーサーにより全員クビになったらしい。


5.破天荒な男

そして戦後、売れる土地や建物にも限度がある。3人の子供を抱えて必死に働く祖母にまで無心してくるようになった。

当時の祖母は裁縫が得意で、着物を洋服に作り替える作業場をつくり、2、3台のミシンを購入して身内で商売をしていた。

そこに現れた元祖プー太郎の祖父は、あろうことか、

「それらのミシンを全て売り飛ばす」

という、破天荒な男であった。



僕が小学5年の頃に高川原の爺さんと大喧嘩をしたことがある。

弟が何かをやらかしたので、彼の頭を叩いた。すると祖父は

「頭を叩くのはよくない!」

と平手で僕の顔を叩いた。それに怒った僕は

「高川原のクソじじい!」

とそこら辺にある物を投げつけて戦争をふっかけた。

それに応じて、投げ返してきた爺さんとの戦いは、窓ガラスが割れる程の戦況にまで陥る。

しかし、泣き叫ぶ弟の声によってその戦争は終息することができた。



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