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「こんな音にしたい」という意志をどうやって持つか?(2)

音楽作品はどこまでが音楽作品か

ずいぶん以前にふとオランダのアイントホーフェンという町に立ち寄って散歩し、なんとなくアートギャラリーに入ってみたことがある。今考えるとそこはMUという所ではなかったかな?若いアーティストの新作のプロデュースに力を入れている所だ。

私が見たときに展示されていたアーティストの名前は憶えていない。日々の日記のようなパーソナルな、あるいはパーソナルに見せかけた、ドローイングと言葉。旅行記。森の中で男(アーティスト本人と思われる)がエレキギターをかき鳴らす映像が大きく映されていた。展示のタイトルは『Amid Piss(小便の最中、かな?)』だったか、はっきりとは憶えていないけれど、そんな感じだった。

アートって結局犬のマーキングと同じだよね、という、このnoteでも何度か述べた考え方について、このタイトルが言っていたのかは、わからない。でも、作品たちを通じてそんな感じが漂っていたと思う。ものすごく好きだと感じたわけではないけど、15年ぐらいたってまだ記憶に残っていて、こんなところにちょっとそのことを書いてみようか、と思わせるぐらいには、私にとっては影響力があったということだろう。15年経って誰かがあなたの作品を思い出してくれたとしたら、うれしくないですか?

その映像作品について考えるところから、始めてみたい。木立の中男が立ってエレキギターを、何の曲を演奏するという感じでもなく、適当に鳴らしている。マイクはギターの音も環境音も拾っている。こういう作品は「音楽作品」とは呼べないと考える人は多いと思う。これはあくまで映像作品として森の中でギターを弾く人という絵を見せたいのであって、ギターと森の音を聴かせることを意図していないのだと。

参考までに、「音楽作品」を創る意図をもってギターを弾くところを映像に撮り、結果「森の中でギターを弾く男」とよく似た効果の映像が出来上がることもある。

アメリカにマーク・ヴィーデンバウム(というカタカナ書きが適当かどうかわからない。Marc Weidenbaumと書く)という、アンビエント・ミュージックの評論やそれに類する音楽イベントのオーガナイズ、音楽教育をしている人がいて、Disquiet Junto Projectと題された企画をもう10年近く続けている。ミュージシャンたち(多くはDIYミュージシャンでSoundCloudをやっている。誰でも参加できる)に毎週お題を出し、ミュージシャンたちはそれに応えて作品をアップする。これはつい2週間前のお題で、「1.音楽を作曲するか、曲を選びなさい。2.野外でそれを自然を『指揮者』に見立てて演奏しなさい。たとえば風に揺れる木立を見ながら、など」というもの。もちろん楽器が弾けない人でも参加することはできる。風が吹いたり水が流れたりしたらスイッチが入るというような仕掛けを作るのもひとつの可能性だろう。上のYouTube動画はそういったレスのひとつで、単純なコードを―「指を見ないと弾けないので」とこのギタリストは説明している―風を顔に感じながら弾いた、というもの。

面白いのは風をキューにしたかどうかなど、映像を見る人にはわからないということだ。私がアイントホーフェンで見たものと似通っているのは、どちらもギターや作曲のスキルを見せようというものでないこと、野外で演奏、録画されていること、環境音も録音されていることなどがあるからだ。けれど、上に挙げたYouTube動画は、「映像作品」であることを目指してはいない。

一方は「映像作品」として。もう一方は「音楽作品」として。どちらも「ある行動の記録」を見せることを意図していて、映像としてのクラフトでも、音楽としてのクラフトでもない。そういう意味でコンセプチュアル・アートだ。

ただし、YouTube動画のほうは、言葉による説明と、Disquiet Juntoという企画という文脈から、より音楽として聴かれることをオーディエンスに要求している。これは風との対話であると、オーディエンスが想像力を働かせて聴くことも。ジョン・ケージ的な態度が要求されていると言える。その違いは小さいものではない。また、「ギターを弾く男の像」を見せたいというものではない。演奏者は中央でなく、向かって左側で下を向いている。アイントホーフェンの作品では演奏者は画面中央にいて、とくにカメラ目線ではないが、前を向いていた。

もうひとつの問題は、そうやって弾くときに「こんな音にしたい」という意志や意図が聴く者に感じられるかということがある。YouTubeのほうは、ナイーヴさを感じさせたいのだな、と感じることができる。風をキューにするにしても、フォークソング的なコードのアルペジオである必要はなく、たとえば、風が吹くたびにボーンと長い音を弾く(ブライアン・イーノの空港の音楽のように)ようなことも可能だし、そういう発想をする人の方がむしろ多いだろう。親しみやすさはこのギタリストにとっては大事なことだったのだろう。

実はアイントホーフェンの映像作品の音についてはあまりよく憶えていない。もうちょっとランダムな感じだったと思う。「こんな音にしたい」という意志はたぶんあったのだろう。でも、記憶に残るのは人の佇まいだった。

ここで前回の投稿で予告した通り、ジャンデクについて、特に最初のアルバムである1978年の『Ready for the House』について、作曲家サミュエル・アンドレイエフが言っていることを取り上げる。この作品は映像ではなく、LPレコードである。ここではギターの音があり、声があり、言葉があり、ジャケットとして人がいない部屋の写真がある。それらの背後にある「人」の存在、また不在を強く感じさせる作品だ。

Jandekという作品

前回の投稿で紹介した作曲家サミュエル・アンドレイエフは、ジャンデク(日本ではジャンデックと表記されることが多いようだけれど、それでは「デッ」にアクセントを付けて発音される恐れがある。実際アクセントは最初のシラブルに来るし、母音は曖昧で「ジェンダク」に近く聞こえる)のレコードをコンセプチュアル・アートと説明する。ジャンデクの作品はまず一連のLPレコードの出版として1978年に始まった。ジャンデクはミュージシャンのではなくて、企画の名前だ。ミュージシャンの素性はスターリング・スミスというテキサスの男性であると信じられているけれど、ほとんど明らかにされていない。このジャンデクは作者自身のレーベルらしいコーウッド・インダストリーズ(Corwood Industriesーテキサスの郵便局に私書箱を持っていて、そこ宛てに注文したりファンレターを送ることができる)から100以上のアルバム、DVDを出版している。LPには曲名、時間、私書箱番号意外に情報が書かれていなくて、ジャケットはおそらくミュージシャン自身、または空っぽの部屋や空間をポラロイドで撮ったのを、粗く引き伸ばしたような写真が使われている。今はウェブサイトもあって、作品目録や歌詞を調べたり、注文することもできる

アンドレイエフは十代のころジャンデクの一枚のアルバム『We Walk Alone』に出会って、惹きつけられた。後にコンセルバトワールの学生として作曲を学ぶいっぽうで、ときどき耳にするジャンデクのことが気になり、レーベルに直接「自分は学生でアルバムを買うお金がないのだけど、いくらか送ってもらえませんか?注意深く聴いてあなたの作品のことを周囲に広めますから」という便りを送った。数週間してレーベルからパリに住んでいたアンドレイエフに「全部エアメールで送りましたーAll SENT Air MAIL PAckAge」という返信が届く。続いて当時の全作品のCDが無料で送られてきた。だからアンドレイエフのジャンデクについてのYouTube動画は、それに対するお礼のひとつと考えることができる。

作者の存在を強烈に印象付けるような音の選び方、アルバムジャケットのデザインなのに、作者の素性を明かすことは徹底して避けられている。「自己神秘化」とアンドレイエフは言う。要するに、思わせぶりなのだ。

「こんな音にしたいという意志」はむしろ強烈だ。音がぶつかるチューニングは意図的にされていることは、図らずも本人がインタビューで答えている。アンドレイエフは敢えて四分音の臨時記号の表記を使ってチューニングを説明する。I弦はEよりだいたい4分の1音低く、II弦はだいたい合っていて、III弦はEよりだいたい4分の1音低く、IV弦はAよりだいたい4分の1音高く、V弦はDシャープよりだいたい4分の1高く、VI弦はだいたい合っている。

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「10年ほったらかしたギターをたまたま弾いてみてもこんなチューニングにはならない」とアンドレイエフは説明する。アルバム全9曲のうち初めから8曲目までがこのチューニングで、インタビューによると録音中このチューニングを保つために直したりしているらしい。最後の曲は歪んだオープンG(かな?)で、よりリズムのある歌になっている。散々モノトーナルな音が続いた後、サプライズがあるように構成されている。

アンドレイエフがサン・ハウスを引き合いに出すように、デルタブルースを思い起こさせるところがある。メロディに使われる音も漠然とブルースっぽい。

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繰り返しの多い言葉もそうだ。けれど言葉はブルースのような一人称で語られる物語にはなっていない。むしろブルースに惹かれつつも決してブルースミュージシャンにはなれない白人ロックミュージシャンの自意識をジャンデクも共有していると言える。以前にシャロン・ファン・エッテンの『I』が「歌う私」になったり歌詞のなかに登場する『kid』になったりする歌詞について取り上げたけれど、ここではもっと曖昧に、歌詞に登場する人たちの関係がわからないようになっている

話はそれるけれど、ついでに。歌詞を書くことはあまりやったことはないけれど、主語を何にするか、話者を何にするか、あるいはどう曖昧にするか、ということで遊んでみるのは面白いと思う。ずいぶん昔に小さな所で公演する小さなお芝居を作ったことがあるけれど、ヘンデルの『Lascia Ch'io Pianga(『私を泣かせてください』と日本では一般に呼ばれている)』に日本語の歌詞を付けて劇中で俳優に口ずさんでもらったことがある。

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この場合、『ぼく』は房総半島かどこかの菜の花なのかもしれない。ナイーヴな歌だけど。あるいは対象をちょっとひねってみるというのも面白い。たとえば、「I am in love with a girl」と言う代わりに、「I am in love with the world through the eyes of a girl」と言ってみる(『Say Yes』エリオット・スミス、Elliot Smith)。ある少女のおかげで『ぼく』は世界に受け入れられていた。そういう感じになれた。

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『読者の誕生は作者の死であがなわれる』とロラン・バルトは書いたけれど

ジャンデクはあるインタビューで「作者のパーソナリティのことは忘れて、ただ作品を聴いてほしい」と言っている。どんなジャンルであれ、こういうことを言うアーティストは多いと思う。かつて、文学研究が作品よりも作者の研究に偏り過ぎている、あるいは、作品によって作品を判断するのでなく、作者を判断する批評が多い―そう感じたロラン・バルトは、そういった風潮に反対して『作者の死』というエッセイを書いている。もともとは「バックグラウンドの研究だけじゃなくて、テキストそのものからだけでもクリエイティヴに何かを読み取って何かを書く―新たなテキストを加える―ことができるよ」という話だったと思うけれど、後々たくさんの「作者たち」に影響を与えた。

『作者の死』という言葉がカッコよくてインパクトがあったということだろう。作品のなかで作者が自殺を試みることは可能か?みたいな課題を立ててみることは、バルトのエッセイのクリエイティヴな誤読とも言えるかもしれない。レディオヘッド(Radiohead)の『How to Disappear Completely』じゃないけど、人は時に自らの不在を夢想するものなのだ。それは逆説的に、頭のなかが自分でいっぱいになっていることの現れでもある。

そういう夢想も面白いけれど、AIによる作曲が現実的になっている現在、『作者の死』は別の質問を立てることに役立つ。AIによる芸術作品について、バルトが生きていたら何て言うだろう?

少し前にガーディアンに載っていた書評担当者による面白いエッセイを読んだ。「もしその小説が良ければ、それがAIで書かれていたとしても気にしないか?」というもので、実業家イーロン・マスクが出資して進めている、AIでフィクションを書くという研究に対するレスポンスだ。研究者は「5年以内に人間が書くよりも優れた脚本が書けるようになる」とか、「フェイクニュースを生産するかもしれない危険なAIである」などと豪語している。

書評担当が指摘するのは、小説を書くという行為は単に言葉のクラフトであるだけでなくて、コミュニケーションのやり方のひとつだよね、というものだ。芸術作品というのは、ある作品を芸術作品として捉える受け手さえいれば成立する、というのが近代の芸術理論であり続けてきた。空っぽの舞台でも聴衆がいれば演劇は成立する。何も演奏されなくても聴くという行為があれば、音楽は成立する。でも、コミュニケーションには送り手と受け手が要る。AIによって作られた作品の送り手は誰か?プログラマー?それなら、たとえば音楽なら、プログラマーが作曲家ということになる。そもそも作曲して楽譜に記すというのは、演奏家が実行するためのプログラミングだ。あるいはイーロン・マスクのような実業家(そういえば、最近マスクが歌を創ってアップしていた。かなり酷いものなのでちょっと安心した)?

AIについては、日を改めてまた書きたいと思う。バルトももう一度読み直してみよう。

クラフトを学んできた作曲家も、クラフトが通用しない世間で仕事をする

ちなみに、サミュエル・アンドレイエフはクラフトのできる作曲家だ。

キム・ゴードンとグライムスを聴きながら

ジャンデクは後のソニック・ユース(Sonic Youth)のようなバンドに影響を与えた。そのメンバーの一人であるキム・ゴードン(Kim Gordon, 1953-)が去年アルバムを出した。

こういうノイズとか、ずいぶん一般化したなと思う。たとえば先日リリースされたグライムス(イーロン・マスクのパートナー)のアルバムを聴いてみればわかる。


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