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「こんな音にしたい」という意志をどうやって持つか?(7)

前回に続いてシェーンベルクについて。無調の音楽においてピッチ(音高)はどの程度重要か?ピアニスト/音楽ライター、チャールズ・ローゼンの本を参考にして考える。

楽曲分析がピッチの分析に偏ってしまう

前回の投稿を書いてしまったこともあり、遅ればせながらいくつかシェーンベルクについての本を取り寄せて調べている。彼の弟子のウェーベルンやベルクも含めて、いわゆる新ウィーン楽派と呼ばれる人たちに対するアカデミックな研究は非常に多い。

特に12音技法で書かれたとされる作品については、これは意地悪な言い方だけど、ある曲の音列探しをすれば瞬く間に(いや、結構面倒な作業だけど)1本のレポートや論文が書けてしまうというのが、その理由の一つだろう。ある一つのピッチ(音高)が、なぜそのピッチなのか—その必然性を調性や伝統的なモードによって保証されていない音楽で、あるピッチがそのピッチである理由を求めようとする態度は、理解できる。でもそれが時にこじつけに過ぎることがあるから、注意が必要だ。新ウィーン楽派の人ではないけれど、彼らと同時代のバルトーク(Béla Bartók, 1881-1945)の音楽について、黄金比やフィボナッチ数列を使っているという話がまことしやかに語られていた(今でもそうなのかな?)。その話のもとになったレンドヴァイという人の論文が日本語訳されていて、学生の頃読んでみたことがあるけれど、まあこじつけだろう。

もっとも、音列を研究する学者たちの大半も、一般的に音列が聴いて追いかけることができないものであることは、承知しているようだ。承知の上で、「聴いてどういう効果があるか?」という問題は脇に置いて、形の研究をしている。

12音技法や音列については、今調べているところなので、この投稿では取り上げない。音列を聴く人にそれとわかるようにするには、音列を旋律として、それも『刑事コロンボ』のそれぞれのエピソードに出てくる無調っぽいライトモチーフ(エピソード毎に新しい曲が書かれ、エピソードのアイデンティティを確立する—エピソードが1話で完結する—のを助けている)みたいに、同じものが何回も現れなければいけない。3声の聴音課題に臨む音大受験生のようなオーディエンスはいない。普通の人々は旋律を、ピッチの連なりとしてではなく、歌であれば声や歌詞、楽器の音色、伴奏、動き、エネルギーの流れ、それらのものが一体となったものとして認識する。

ピッチというのは音楽を構成する要素の一つではあるけれど、一番大切な要素というわけではない。また、いつも何かのシステムに裏付けられていなければならないものでもない。「そう感じたからこの音にした」というのもありだし、「即興を想定していない以上、何かピッチを確定しなければならないので乱数表でとりあえず決めた」というのもありだ。以前紹介したサミュエル・アンドレイエフも、英語圏の楽曲分析はピッチに偏り過ぎると指摘している。いろいろな論文を調べてみたわけでも、アメリカで作曲のレッスンを受けたわけでもないので、本当のところは私にはよくわからないけれど。

A管でもB管でも効果は同じ?

ピアニスト/音楽ライターであるチャールズ・ローゼン(Charles Rosen, 1927-2012)が、シェーンベルクについて、小さいけれどポイントを押さえた(と私は思う)本を書いている日本語訳も出ている。その中で彼は、『現代音楽』の演奏について、しばしば演奏家たちが「いかにたくさんの音を間違えずに演奏したか」ということを自慢するのを批判している。ピッチを間違えないほうがより良い効果が得られるとしても、それがダイナミクスなどのほかの指示より優先されてはいけないと言っているのだ。音楽のほかの要素、リズム、ダイナミクス、音色などに対して、ピッチの地位は低くなっているのに、非常に秀でた音楽家でもそれを認めたがらない、と言う。ローゼンは「シェーンベルクを正しいピッチで演奏すればより良い演奏になること」は「モーツァルトを正しいダイナミクスと音色への注意深さで演奏すればよりよい演奏になること」と同等だと言う。また、『ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)』の3曲目のクラリネットパートはA管で吹いてもB管で吹いても—ほかのパートはそのまま—効果はあまり変わらない、と(譜面はA管に指定されている)。

こういうことは実験してみるのが良い。下の楽譜は『ピエロ・リュネール』3曲目『Der Dandy』から声のパートを除いた、ピッコロ、クラリネット、ピアノのパートを書き出したもの。声のパートはシュプレッヒシュテンメ(sprechstimme)という、音程は一応指定されているけれど「語る」ことを優先して演奏するようになっているので(ラップにより厳密なイントネーションとリズムの指定が付いたもの、と乱暴に言えばそういうことになる。実際の解釈では歌に近いものも語りに近いものもある。能の謡を引き合いにして説明する人もいる)、ハーモニーの形成にはあまり関係ないものとして省いた。実音で書かれている。先にオリジナル通りのピッチ、次にクラリネットだけ半音高い(つまりB管で吹いたもの)を挙げ、それぞれmidi演奏によるデモを添えておく。ソフトの都合で記譜の仕方はオリジナルと若干変わっている。冒頭のメトロノーム以外は、再生の都合上私が付けた。もっと細かく付けた方が良いだろうけれど、まあだいたいこんな感じということで。また、28小節目からピアノが音を鳴らさないで鍵盤を抑えるところがある。ハーモニクスの効果をねらったものだがこれも省いた。もちろん実際の演奏ではもっときめ細やかな変化が付けられるので、midiでは(それもmusescoreの機能そのままでは)再現できない。オリジナルの譜面にもぜひ目を通してもらえたらと思う。

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あなたは聴き比べてどう感じますか?

『青白い洗濯女』

確かにこのように各パートが独立していて、クラリネットとピッコロがユニゾンや比較的長い音価で擦れ合う(短2度などで持続する)ようなところがなければ、あまり効果に違いはないように感じる。けれど次の4曲目『Eine blasse Wäscherin(青白い洗濯女)』のように、フルート、クラリネット、ヴァイオリンによるゆっくりとしたコラールで、しかも最高音を演奏する楽器が各和音ごとに入れ替わったりする場合は、かなり違った結果になるだろうと予想できる。

『Eine blasse Wäscherin』を観察する前に少し寄り道すると、チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』の最終楽章の冒頭の弦楽器パートはこう書かれていることで有名だ。

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なぜ有名かというと、それぞれのパートがうねうねと跳躍を含んでいるのに実際には下のようにしか聞こえないからだ。

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旋律線は順次進行で下降する。ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンの組み合わせ、それからヴィオラとチェロの組み合わせが、互いに音を交換し合う。最高音と最低音の間での楽器の交換はない(チェロはヴィオラより高く始まるがヴァイオリンより高くなることはない)。音色の変化は聴き取れない。チャイコフスキーはそれを承知の上で、個々の演奏者には感情のうねりを感じて演奏してほしかったのだろう。もしもっと音色の違う楽器で、音域を広げてやってみるとどうなるか?たとえばアルトフルート、クラリネット、トロンボーン、ヴァイオリンそれぞれソロで…(想像してみてください)

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『Eine blasse Wäscherin』の場合は、冒頭(全部で18小節しかない)フルート、クラリネット、ヴァイオリンがコラールというか、ブロックコードを演奏し続ける。次の通り。

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1小節目の二つのコード—FBDとDBEの動きが2小節目で音価を縮めて繰り返される。3回目のFBDの後延長され、3小節目4拍目の増3和音(こういう呼び方が慣れている人には、オーギュメント。BGD#)が色合いを変える。ここまでB音が保続される。4小節目から短3和音(マイナー)が使われるが、和声的な機能は持っていない。この小節の4拍目で初めて長7度が使われる(G-F#)。声が入るのは5小節目の3拍目から。6小節目からは概ね声より高い音域で跳躍の多い動きをする。6小節目のうち1、2、4、5、6番目のコード、7小節目のうち2,3,6番目のコードは長7度を含む。7小節目の4番目のコードは短9度を含む。6小節目には短3和音と増3和音が一度ずつ、7小節目には増3和音が一度現れる。また、6-7小節目の密集和音と乖離和音の流れにも注意したい。自然な旋律とは上がったら下がる、下がったら上がる、順次進行が続いたら跳躍する、その変化(山の形の違いが豊かさを生む)で成っている。ブロックコードを旋律的に動かすとは、そこに同時に鳴らされる複数の音の密度や音域の変化を加えるということだ。つまり、密集すれば離れる、ある音域で集まれば違う音域に跳躍する、そうやって空間を少しずつ埋めてゆく。

先述した通り、ここでの楽器(フルート、クラリネット、ヴァイオリン)の使い方が面白い。各楽器がそれぞれ、高声、中声、低声を分担して引き受けるのではなく、それぞれがコードごとに入れ替わるので、各パートがより旋律的に動くことになる(下のスコアは実音)。

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終始弱音で、ヴァイオリンはミュートを付けて演奏される。コラール、ブロックコードでは(どこかのパートだけオクターブで重複などされてなければ)通常コードの最高音が一番目立つ。高音(H)、中音(M)、低音(L)をそれぞれどの楽器が受け持っているのか、書き出すと下のようになる。

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高音では、ひとつのフレーズ(スラ―で繋がれている)の中では同じ楽器が続けて出てこないようになっていることがわかる。ひとつの楽器だけが強調されないようになっている。音色の違いによる各楽器ごとの動きを耳で追い続けることは難しいが、何となく動きやエネルギーを感じるというように、デリケートにできている。

とりあえずこの部分だけ、クラリネットを半音上げて聴き比べるとどうか?下のトラックは最初オリジナル通りに、間をおいてクラリネットが半音上がったものが流れる。

この違いをどう感じますか?感じ方に、間違いも正しいもありません。



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