天寿と長寿
もう二十数年ほど前、私が僻地診療所に勤務し始めた頃のことです。それまでは私も病院勤務しかしたことがなく、食べられなくなったら点滴をしたり、状態が悪ければ入院をさせるということしか頭にありませんでした。
当時、地域で最高齢の102才のおばあさんのところに在宅医療にお伺いしていました。もう長年、脳梗塞で寝たきりでしたが、長男夫婦の手厚い介護を受け、自宅で療養されていました。徐々に状態が悪化し、食事がとれなくなってきました。 長男夫婦は高齢でもあり、入院は望みませんでしたが、食事がとれないことを心配し、点滴を希望されました。私は本人に食事が摂れないから点滴をするように告げましたが、本人は「食事が摂れなくなったら終わりだから、絶対に点滴はしてくれるな」とはっきりと言いました。
その後も、何度も家族の依頼を受けて本人に点滴を勧めましたが、 本人は頑として受け入れませんでした。 家族も私もどうすべきか悩みましたが、私は患者さんを押さえつけてまで点滴をすることはできませんでした。なぜなら患者さんがこれまで生きてきた102年間の最期を汚してしまう気がして、おばあさんの希望通り点滴をせずに自然に看ていきました。点滴をしないとむくみもなく、痰も出ず、楽そうでした。私は医師として、最期に点滴も何も医療処置をせず、自然に看ていくのはこのときが初めてでした。
おばあさんは約2週間後に息をひきとりま した。顔はむくみもなく、とても穏やかで凛としていました。もし、本人の意志に反して点滴をしていたら、むくみや痰が出て吸引が必要になり、本人を苦痛にしていたことでしょう。本人の天寿を全うすることを医療が邪魔をしない・・・そんな自然な看取りも選択肢にあるのだということを教わった気がします。現在の私の在宅医療での「枯れるように亡くなることが一番楽である」という考え方の基本はこのおばあさんが教えてくれたと思います。
これまで、日本の医療はとにかく治すことを主眼に発展してきました。最期まで治すことを追求して、長寿を目指してきたのです。しかし、多死社会を迎える今、どんなに素晴らしい医療を持ってしても、いつか必ず人間は亡くなるということにしっかりと向き合った上で、自然の死を受け入れることが必要になっていくと思います。死に向き合ったとき、私たちは本人がどんな最後を迎えたいと思っているかに思いを馳せるようになります。
「亡くなるまでどう生きるか」。人生の主人公であるその人の希望を追求して天寿を全うする生き方も、選択肢としてあるのだと思います。