TAMPOPO NAGAI

2000年に在宅医療専門クリニックを開業。現在は多職種チームで在宅医療を主体に、有床診療所、外来の運営も行っている。平成22年には市町村合併の余波で廃止となった人口約1200人の町の国保へき地診療所を民営化。その取り組みは平成28年に第1回日本サービス大賞地方創生大臣賞を受賞。

TAMPOPO NAGAI

2000年に在宅医療専門クリニックを開業。現在は多職種チームで在宅医療を主体に、有床診療所、外来の運営も行っている。平成22年には市町村合併の余波で廃止となった人口約1200人の町の国保へき地診療所を民営化。その取り組みは平成28年に第1回日本サービス大賞地方創生大臣賞を受賞。

マガジン

  • たんぽぽクリニック20年の軌跡

    介護保険法が施行された2000年にたんぽぽクリニックは愛媛県発の在宅医療に特化した在宅医療専門クリニックとして開業しました。2020年で20年を迎え、これまでの歩みを振り返ってみました。

  • 生きがいとは人に必要とされること

    在宅医療の現場から感じた思いや患者さんに教えられたことをエッセイにまとめています。

  • 今日の診療の一コマ

    外来や在宅医療での患者さんとの一コマをご紹介します。

  • ポストコロナを見据えた在宅医療

    新型コロナウイスルガ猛威を振るい、社会も医療も大きく変貌しています。今は、世界中の誰もが、大きな不安を抱えながら、未経験の世界を手探りで生きています。今やっていることが本当に正しいのだろうかと考えると思いますが、少し先を見据えながら、今を見つめ直す事が出来ればと思います。ポストコロナの在宅医療はどうなるのか考えつつ、今私たちは何をすべきなのか考えていければと考えています。

最近の記事

第2回「へき地医療の経験が原点」

 1992年に愛媛大学を卒業し、自治医科大学地域医療学教室での研修後、シニアレジデント3年目の時にはじめて赴任したのが、愛媛県の南予地方にある当時人口約1800人の明浜町俵津地区でした。リアス式海岸に面した町で、海と山が近く、斜面でのミカン栽培と真珠の養殖が主な産業。そこにある国保俵津診療所は、まさに僕が描いていたイメージ通りのへき地診療所でした。  私がこの国保俵津診療所に所長として赴任したのは、29歳の時でした。まだまだ医師としても未熟で住民の方にご迷惑をおかけしたこと

    • 「たんぽぽのおうち」を作った理由

      たんぽぽクリニックは2000年に在宅医療に特化したクリニックとして開業しました。24時間いつでも対応できる、質の高い在宅医療を地域に提供するために、あえて外来も病床も持ちませんでした。しかし、2016年に16床の病床をオープンしました。入院しても、自宅と同じようにくつろげるように、そして自分のおうちのような温もりがある場所になるようにとの願いを込め、「たんぽぽのおうち」と名付けました。  現在、有床診療所は毎年全国で数百施設ずつ減っており、最近20年間で約三分の一と減少の一

      • 「治す医療」と「支える医療」

        私は医療には「治す医療」と「支える医療」があると考えています。  私が医者になった頃、上級医から「患者が亡くなっても、ご家族の前で泣いてはいけない。ご家族が一番つらいのだから」と教えられました。今思うと、これは医者と患者家族との間にあえて一線を引くということであり、当時の医師には必要だったのかもしれません。それは「治す医療」だったと、今振り返って思います。 「治す医療」とは、患者を治し施す医療のこと。救急医療は、その最たるものだと思います。患者の命を救うために医療技術の粋を尽

        • 第1回2000年在宅医療専門クリニックを開業

          私は介護保険法が施行された2000年に四国初の在宅医療専門クリニックとしてたんぽぽクリニックを開業しました。外来も入院も持たない在宅医療だけに特化した在宅専門クリニックは当時は、まだ日本にも大都市にしか存在せず、希有な存在でした。その時、私はまだ弱冠34歳の時で、へき地医療を数年行い、在宅医療の楽しさとやりがい、そして、日本では高齢化率が世界一となり、介護保険法もはじまり、これから高齢者をどのように介護し、社会保障問題をどう解決していくかという幕開けの時代でした。 在宅医療

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        • たんぽぽクリニック20年の軌跡
          2本
        • 生きがいとは人に必要とされること
          36本
        • 今日の診療の一コマ
          4本
        • ポストコロナを見据えた在宅医療
          1本

        記事

          本人の食べる権利は?〜たんぽぽ寿司〜

           余命1週間と宣告され、当院に転院後、わずか1週間で箸やスプーンを使い、自ら食事ができるようになったサトシさん。「退院のお祝いに何が食べたいですか?」との質問に、「寿司が食べたい!」とサトシさんは元気に答えました。  そこで、調理場厨房の板前が腕を振るい、寿司をお出しすることにしました。寿司ネタは当日仕入れたマグロにタイやサーモン。サトシさんが食べやすいように、ネタも寿司飯も、なめらかなムース状にして作ります。それらを桶に並べ、サトシさんの目の前で板前が握るという本格的寿司屋

          本人の食べる権利は?〜たんぽぽ寿司〜

          余命1週間からの復活

           88才の妹さんと二人で暮らす91才の男性サトシさん(仮名)は、認知症を患っていましたが、身の回りのことは何とか自分でできていました。ある日、息をするのがつらくなり、病院を受診したところ、誤嚥性肺炎をおこしており、そのまま入院となりました。口から食事をすると肺炎がまた悪化する恐れがあることから、絶飲食となり、持続点滴が開始され、お薬は経鼻胃管チューブ(栄養注入や服薬のため、鼻から胃に挿入するチューブ)からの注入となりました。肺炎予防のための痰の吸引も頻回に行われました。サトシ

          余命1週間からの復活

          在宅医療のグローバル化

           世界各地への航空網の広がりや、インターネットなどの情報通信技術の普及により、近年、世界のグローバル化は顕著になりました。しかし、トランプ大統領のアメリカ第一主義政策など、グローバル化の限界もみえはじめ、地域に根付いたローカル化の動きが出ていたところに、新型コロナウイルス感染拡大により、モノとヒトの往来に大きくブレーキがかかりました。  在宅医療に目を向けてみましょう。2020年の日本の高齢化率は28・7%と、世界一の超高齢社会です。世界のどこの国も経験したことがないスピード

          在宅医療のグローバル化

          開業20周年!感謝!

           介護保険制度が始まった2000年、私は在宅医療専門のたんぽぽクリニックを開業しました。それまで愛媛県には、外来も病床も持たずに、在宅医療だけを行うクリニックはありませんでした。  先日、開業当初からお付き合いのあるケアマネジャーに、こんなことを言われました。「先生が開業した頃は、在宅医療なんて誰も見向きもしなかったのに、今は誰も彼もが在宅医療ですね」。当時は、医師仲閒からも「在宅医療だけを専門でやるなんて変わったやつだな」という目で見られていたと思います。しかし、超高齢社会

          開業20周年!感謝!

          恩返しの俵津プロジェクト

           「診療所がなくなってしまう。何とかしてくんなはい!」俵津住民の男性が、この窮地に私のことを思い出し、へき地診療所を立て直す「俵津プロジェクト」が立ち上がりました。  小さな診療所の閉鎖は、町の人の生活や人生までも脅かす大問題でした。たんぽぽ俵津診療所の前身である国保俵津診療所に勤めていた約5年間、若い私を医師として、人間として育ててくれた俵津住民の皆さん。私が新たな志を抱き、診療所を去る日、診療所の駐車場から続く道を埋め尽くし、野福峠の沿道からも車が見えなくなるまで見送って

          恩返しの俵津プロジェクト

          桜とみかんの野副峠~へき地診療所への道~

           私は松山市にある「たんぽぽクリニック」で在宅患者さんの診療をしていますが、毎週木曜日は西予市明浜町にある「たんぽぽ俵津診療所」に出向き、診療を行っています。  診療所のある俵津地区は、宇和海に面した人口1,100人の町です。この町には松山から宇和で高速を降り、野福峠という峠を越えて向かいます。桜の季節には、峠から見渡す絶景に魅せられ、多くの花見客がここを訪れます。明るい南国の日差し、沿道に咲き誇る桜の淡く透き通るようなピンク色、山の斜面に広がるみかん畑の輝くような緑、その向

          桜とみかんの野副峠~へき地診療所への道~

          私の在宅医療の原点

           私は松山市にある「たんぽぽクリニック」で在宅患者さんの診療をしていますが、毎週木曜日は西予市明浜町にある「たんぽぽ俵津診療所」に出向き、診療を行っています。  診療所のある俵津地区は、宇和海に面した人口1100人の町です。この町には松山から宇和で高速を降り、野福峠という峠を越えて向かいます。桜の季節には、峠から見渡す絶景に魅せられ、多くの花見客がここを訪れます。明るい南国の日差し、沿道に咲き誇る桜の淡く透き通るようなピンク色、山の斜面に広がるみかん畑の輝くような緑、その向こ

          私の在宅医療の原点

          「亡くなるまで食べる」ことの意味

           四季録執筆を開始してから、毎回記事を切り抜いて保存しているとか、家族で記事を元に話し合っているとか、皆様からの嬉しい声がたくさん届き、その反響に自分でも驚いています。今回は、四季録がきっかけで診療が始まったケースをご紹介します。  神経難病で長い間在宅療養をされてきた南予の80才代の男性は、延命治療を希望せず、自然で穏やかな最期を望んでいました。ある時、自宅で転倒し、入院中に誤嚥性肺炎を起こしたため、食事ができず、点滴をしながら何回も吸引が必要な状態となりました。  松山に

          「亡くなるまで食べる」ことの意味

          納得できる最期とは何か?

           96歳の一人暮らしの女性のお話です。この方はヘルパー等の在宅サービスを利用しながら穏やかに生活されていました。診療に伺うたびに、「先生、自宅で苦しまないように楽に逝かせてください」と、言われていました。尊厳死宣言書に署名され、自分の意思を貫くために、公証役場に遺言を残しておられました。  女性からは、状態が悪くなっても長男には連絡しないでほしいと明確な意思表示がありました。長男さんは責任ある立場で仕事をされており、女性が連絡を望まないのは、長男の仕事に迷惑をかけたくないとの

          納得できる最期とは何か?

          一人暮らしでの看取り

           「老々介護でも在宅医療は可能ですか?」とよく聞かれます。老々介護で在宅医療を開始する時に、私が高齢のご家族に必ずお伝えするのは、「介護する方は、何もしなくていいんですよ」という言葉です。在宅医療に携わる人たちが、一人暮らしでも家で看取ることが可能な地域を目指して患者さんの支援をすれば、どんな病気や障がいがあっても家で暮らし続け、看取ることができると私は思います。  では、具体的にどうすれば一人暮らしの人を看取れるのでしょうか? さまざまな専門職と協働し、サービスを提供するの

          一人暮らしでの看取り

          命のバトン

           ある70代の男性のお話です。末期癌で余命(残された命の期間)があと数日となった頃、県外に暮らす娘さんやお孫さんたちも実家に帰ってきました。せっかく帰省したというのに、小学生のお孫さんたちはいとこたちとゲームに夢中です。娘さんも子どもたちに、おじいさんのことを話そうとはせず、遊ばせていました。このような状況の中では、「おじいさんのために、今、何ができるのか」子どもたちが気付くことはできません。  しばらくして、私はお孫さんたちに声をかけ、おじいさんが置かれている状況について

          命のバトン

          死に向き合う

           今の時代、「がん」という病名の告知が本人にされることは一般的になりました。しかし、病名は告げたけれど、その後本人との対話が十分になされておらず、本人も家族も、そして医師すらも死に向き合えていないと感じることが多くあります。  家族には「年は越せないかも」「お盆まで持つかどうか」などと、亡くなる頃を予測する話をしますが、本人にはその真実を告げられないことがまだまだ多いと思います。「本人に本当のことを知らせるのはかわいそうだ」という家族の思いから、本人の意思は蚊帳の外となって治

          死に向き合う