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1人称の死

 皆さんは自分の「死」を想像したことがありますか?人は生まれたらいつか必ず亡くなります。これは当たり前のことですが、「死」をイメージできる人とそうでない人がいます。
 「あなたはピンピンコロリで亡くなりたいですか?それとも介護を受けて亡くなりたいですか?」。講演会でこう質問すると、ほとんどの人がにっこりと笑顔でピンピンコロリの方に手を上げます。「では、明日の朝、亡くなっていてもいいですか?」と聞くと、尻込みする人がほとんどですが、もう十分生きたからそれでいいという方もおられます。
 でも、実はピンピンコロリで亡くなる日本人は約5%しかいません。残りの約95%の日本人は平均で男性は約9年、女性では約12年介護を受けて亡くなると言われています。簡単に望むように亡くなることはできないということでしょうか。いつか自分が亡くなる時に思いをはせてみてください。どんな場面が思い浮かぶでしょうか?
 私は医師として、これまで2千人以上の患者さんのお看取りに関わってきました。患者さんやご家族の思いにできるだけ寄り添ってきたつもりでしたが、あくまでこれは「三人称の死」でした。いくら患者さんの立場に立とうとして頑張っても、やはり他人の死であり、医師として客観的に見ていたのかもしれません。
 ある時、私の父が亡くなりました。解離性大動脈瘤でした。ある程度覚悟はしていたものの、親を看取る経験をして、本当の意味で自分自身が患者さんのご家族の立場に立てていなかったと思い知りました。これが私が経験した「二人称の死」です。
 47歳の時、私は進行癌になりました。ついに自分自身の「一人称の死」に向き合ったのです。自分が癌になってはじめて、患者さん本人の気持ちがわかった気がしました。手術前に妻や2人の子供と話をしました。自分の死に向き合った上で、なぜ癌になってしまったのか、手術が成功しなかったら、転移があったら、家族は、法人の残された組織や職員は、などとさまざまな不安が駆け巡りました。まさに私自身がこれまでの患者さんの立場に立ったのです。
 「一人称の死」と向き合うことで患者本位の医療をさらに意識し、自分自身の人生も変わっていく感じがしました。人の命は有限です。命は限られているからこそ素晴らしいのです。いつか亡くなるその日まで思いきり生きる。それが「人生」ではないでしょうか?いつか亡くなるまで一度しかない人生をどう生き抜いてみようか? 今はそう思って、一日一日を精いっぱい、大切に生きています。

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