ペンと数式
アザンの祖父はその皺くちゃで骨張った美しい手で、古くて大きい美しいペンを握り、難解で入り組んだ美しい計算式を書いている。
アザンは幼い頃、祖父の家がとても好きだった。埃と本の積み重なった、香木の匂いのする薄暗い家。
父は祖父が苦手だったのであまり寄り付かなかったが、息子をその家に送り届けることだけはしてくれた。
お邪魔します、と小さな靴を脱いで玄関をあがっても、いつも祖父からの返辞はなかった。アザンはそれを不愉快だとも、祖父の留守だとも思わなかった。
祖父は一日中、自分の書斎で紙の上で踊る、複雑なこの世の謎と内緒話をしているのだ。
部屋をこっそり覗くと、祖父の手元からペンが紙の上を滑る音が、小さく小さく聞こえる。後は祖父の呼吸音。そして外から聞こえる、風が木々を揺らす音。
アザンは足音を立てないよう、気配を消して忍び寄る。数字と記号がインクによって刻まれ、祖父はそのまわりに小さな文字を沢山書いている。
それが何を意味するのかはわからなかったが、アザンはその記述を見つめるのがとても好きだった。
祖父は多くの事柄について、知識を豊富に蓄えていた。アザンはそんな祖父がとても、好きだった。
「おじいちゃんはなんでもわかる」
アザンがそう言うと、祖父は数式から目を離さずにアザンの頭を撫でて、首を横に振る。
「いや、儂は何もわからん。何かを知れば知るほど、自分が何もわかっとらんのだとわかるだけだ」
祖父が何を言っているのか、アザンには理解出来なかった。祖父は微笑んで、煙草に火をつけた。
「世界は儂らが思うより、とてつもなくでかく、とんでもなく深いってことだ」
数字で宇宙を表現出来るとしたら?
計算式がこの世の真実を、紐解けるとしたら?
そんな夢を描く人々がいる。祖父はその中のひとりであり、その中のひとりではなかった。
彼は夢を見ながら、同時にそんな夢は無意味だと知っていたからだ。
「宇宙の全てを計算し尽くしても、謎を紐解く説明が出来ても、宇宙は宇宙であり、宇宙の動きに変わりはない」
それに暗黒物質に関しては、どう説明する?
目に見えない、触れもしない、なんだかわからない。そしてそれがどう作用して、何の為に存在するのかもわからない。
そんなものが我々の存在するこの空間の中の、四分の三を占めている。
「解けていない問題は沢山あった方が良いがね」
祖父は頬杖をついて、窓の外を眺める。祖母が祖父とアザンを呼ぶ声がする。夕飯の時間だ。
「解く楽しみは、無限に残されている」
人々はひとつひとつ、問題を解いてきた。
祖父は祖母の作った夕食を噛み締めて、アザンに話す。一個一個、わからないことを、わかるようにしてきたんだ。
仮説を立て、証明する。様々な失敗と計算ミスのその先に、すっきりとした真実が鎮座している。
「それでも、それは人類の功績じゃない。儂らは発見しただけのことでな、知はいつもどこからか与えられるものだ」
だから、と祖父は自らの言葉を自らで継いだ。
数式を考えること、真理を探しにいくことは、儂らにとっては神々と対話するのと同義だ、と。
アザンの父は最初にも書いた通り、祖父のことを快く思っていなかった。
子供の頃、祖父は父に数学で良い点数をとることを期待し過ぎた。遺伝子の伝言ゲームに関する優秀さを信じていたのだ。
だが、父と子は飽くまで違う人間であり、そこに若き時代の祖父の計算違いが生じた。正解を導きだす為には、必ず必須の事実を残らず掻き集めて、正しく配置しなければいけないというのに。
父は結局、学校を途中で辞めて、今は肉体労働によって生計を立てている。自分の父親の仕事と正反対の仕事を選んだ、というわけだ。
「親父は、全てが計算出来ると思っている。でも人間ってのはそんなに単純なものじゃないんだ。人の心は数式じゃ、計算できないんだよ」
父はお酒に酔うと、必ずそう言った。父と祖父の煙草の銘柄は一緒で、お互いに長い時間を共にしないから本人たちこそ知らなかったが、遺伝子の伝言ゲームはコピーやクローンこそ作らなかったが、ある意味に於いてはとても正確に機能していた。
アザンはそれを見て、世界の神秘の欠片を見つけた気持ちになる。不思議な符号。真実の足跡。隠されたヒント。
世界はとても不思議で美しく、近目の人々にわからないように繫がり合って、何かしらの形を織りなしている。それは掴めるようでいて、掴もうとすればすり抜ける美しい蝶と似ていた。
全ての文章には、必ず筆者の主観が這入り込んでいる。
言葉を書くというのは、そういうことだからだ。宗教書であろうと、教科書であろうと、例外はない。
しかし数式に主観は入らない。時として希望が少し混ざることがあるが、希望は数ではないので、結局そういった数式は間違った解を導きだし、計算し直した先には要らないものは排除される運命にある。
数字は何も語らず、語らないということによって語る。
勿論、数字になく、言葉にあるものだってある。行間だ。
数字に行間はない。余白がない。それは数字はより正確であるということであり、そして言葉には包容力があるということでもある。
だからこそ、祖父は数字と言葉の二つを使ったのだ。言葉だけでは曖昧すぎて、数字だけでは正確すぎる。不思議なこの世界を言い表すには、相反した二つの理をどちらも愛することが必要だったから。
悪と正義のように。陰と陽のように。背中合わせで常にひとつである、白と黒のどちらをも。
ある日アザンが祖父の家を訪ねると、祖父が床に四つん這いになって何かを探していた。
「何を探しているの?」
祖父は困惑した顔で、腕を組んでううむと唸った。
「ペンとな、数式をひとつ落としてしまったんだ」
ペンと? なんて言った? 数式? 今は祖父は『数式を落とした』と言ったのだろうか?
アザンは困惑する。一体祖父に何が起きているのだろう?
その時、リビングからがしゃん、と大きな音がする。今度は一体なんだろう? アザンの心臓がどきどきと高鳴り、厭な予感が部屋の天井にへばりついて、家族たちを見つめている。
リビングでは、祖母が倒れていた。苦しそうに呻き、眉間に皺を寄せている。
「おじいちゃん、大変だ! おばあちゃんが倒れた!」
祖父はちらりとこちらを見ただけで、数式が、ペンが、と小さな声で話している。アザンは祖父に向かって叫ぶ。祖父は気に留めない。
アザンは結局、父に電話をし、父が救急車を呼んだ。
救急車が到着する前に帰り道を引き返してきた父が見つけたのは、倒れた祖母と泣きじゃくる息子、そしてペンと数式を探す父親の織りなす奇妙な光景だった。
祖母は病院に運ばれ一命は取り留めたが、もう言葉を話すことはなかった。優しかった祖母。祖母の微笑み。甘く煮た料理。家族たちは皆、全てが恋しかった。
祖父はあの日から、少し意識がずれてしまったようで、アザンたちには理解し難い言葉を話すようになった。
父は祖父のことを惚けてしまった、と嘆いていたが、アザンにはそのようには思えなかった。祖父は数学の扉の向こう側に行ったのかもしれない、と思った。
我々に理解出来ないものは全て存在しないとは、祖父はアザンに教えてこなかったから。
なにせ我々は観測出来ている世界の四分の三すらも、何が何やらわからないのだ。祖父の言葉が人々に理解出来なかったとしても、それで彼がおかしくなったとは限らない。
例えば暗黒物質の謎を解いた人が、複雑な言葉でそれを話せば、人々はその人を狂人だと思うことは当然あり得るだろう。
そもそもアザンは、最初から祖父の書く数式のひとつとして理解できていなかったのだから。
祖母は喋らず、生命維持装置に繋がれたまま、数年生き、そしてひっそりと死んだ。
アザンは祖母の面倒を見る見ないで、父と父の兄弟たちが揉めているのが酷く厭だったので、祖母の訃報を聞いて少しほっとした。
そして苦しみの中にいた祖母の解放を祝った。祖母が去ってしまうことは寂しかったが、アザンも自分が動けないこと、繋がれていること、病気の状態が続くことは好きではなかったから、祖母がその状態ではなくなることは喜ばしいことに感じられた。
祖母の葬儀でアザンは弔辞を読んだ。それはさよならの手紙だった。祖母に書いた最初で最後の手紙。読み終わって、葬儀会場の外に出て、青空を見上げると涙がぼろぼろと出て来た。
喜ばしいことだと感じていたのに、それでも別れはいつだって悲しい。けれどしがみつくことより、手放す方が幸せな時もあるのだ。水は流れ、風は旅をし、時は巡る。自然の流れに逆らえば辛くなる。
いつの間にか出て来ていた母が、アザンの肩に手を置く。
「おばあちゃんがいなくなって、寂しいね」
母が涙声で話す。別れに相応しいのか、不似合いなのか、春風が二人の頬を撫でて、涙を乾かそうとしてくれた。
「父さんは?」
「お兄さんたちとお茶を飲んでるわ」
父は兄たちのことも嫌っていた。彼らは祖父に似て、数学や物理学が得意で、それぞれが大学教授や医者などになっていて、いつも父のことを見下し冗談の種にした。
「おじいちゃんは?」
母は黙って、後ろを振り向いた。葬儀場の建物の隣の階段に座って、空を見ながら煙草を吸う祖父の姿がそこにはあった。
アザンは祖父に近づいて、何も言わずに隣に座る。祖父も何も言わない。祖母が倒れてから、祖父には介護サービスがつけられていた。父も兄弟たちも祖父の言葉に耳を貸さず、アザンもどう対応すればいいかわらかなかった。
けれど、祖母が死んだ今なら、ようやく祖父と話せる気がした。
「ペンと数式は、見つかった?」
祖父は煙草の煙を空に燻らせ、物思いに耽る。
「見つからんよ。いつもばあさんが探し物は見つけてくれていたんあが、ばあさんが家にいなかったからな」
喉仏の奥で、言葉が悲しみに詰まる。祖父のペンと数式は永遠に見つからないのだろう。祖母はもういないのだから。
「今度一緒に探してあげようか」
一羽の鳥が電線の上で、眠たそうに世界を見つめている。野良猫がゆっくりと二人の目の前を横切る。人を警戒していない獣。この街の獣はみんなそうだ。
木漏れ日、土から生える新芽、水の冷たさ。そういったものにアザンは、神の気配を感じる。尊く輝く、世界の真実。入り組んだ数式の奥で、静かに呼吸を続ける生命の正体。
「いいさ。もうばあさんも帰ってくる。旅立つ前に、見つけてくれるだろ」
祖父がにこにこと笑った。それはそれは、嬉しそうに。
「紙、あるか?」
祖父からそう訊ねられて、アザンは手帳の頁を一枚破って渡した。祖父はスーツの胸ポケットからペンを取り出し、青い文字でさらさらと何かを書き込み、それを祖母の棺桶にそっと入れた。
『eiπ=-1』
その紙には、そう書いてあった。アザンは祖父に尋ねる。
「なんて書いたの?」
「お前は世界一、美しい。そう書いた」
祖母の眠る棺桶の蓋が閉まり、釘で打たれる。さようなら。鐘が鳴る。皆が静かに押し黙る。
アザンには祖母がまだ近くにいるように、感じる。不思議な気持ちだ。祖母はもう棺桶で眠る祖母の肉体を離れて、にこにこと笑っている気がする。
祖母の身体が運ばれ、燃やされる。
父の兄弟たちは、やれやれと言いながら待合室に歩いて行く。母はアザンの隣にいて、アザンと同じ景色を見ていた。
広い駐車場に立つ祖父。そして少し離れた場所に父。二人は知らず知らずに同じ体勢で、同じ煙草を吸う。
アザンと母はそれを見て、世界の神秘の欠片を見つけた気持ちになる。不思議な符号。真実の足跡。隠されたヒント。
世界はとても不思議で美しく、近目の人々にわからないように繫がり合って、何かしらの形を織りなしている。それは掴めるようでいて、掴もうとすればすり抜ける美しい蝶と似ていた。
数日後、祖父の家を訪ねると祖父は机に向かっていた。
祖父はその皺くちゃで骨張った美しい手で、古くて大きい美しいペンを握り、難解で入り組んだ美しい計算式を書いている。
机の上に笑った祖母の写真が飾ってあり、その写真にはマジックで『eiπ=-1』と書き込まれている。
「ペンと数式、見つかったんだね」
アザンの声は祖父には届かず、祖父はこの世の謎との内緒話に熱中している。
ペンが紙の上を滑る音。祖父の呼吸音。外から聞こえる、風が木々を揺らす音。
父と同じ銘柄の煙草の煙の、匂い。
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