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ラムネの硝子玉

 マルチェロは私が誕生日に贈ったセーターのほつれた縫い目に落ちた。そしてそれっきり、行方不明のままだ。
 私はそのことに関して、後悔している。もっと縫い目の細かいセーターにしておけば、今もまだマルチェロのあの愛くるしい笑顔は私のそばにあったのだから。
 終わりのないアルコール除菌。潔癖社会。
 マルチェロがセーターのほつれに落ちてから、世間はどんどんと潔癖を加速させていった。人と人との関わりはウイルスの感染を防ぐ為に希薄になり、ほんの少しの過ちさえ赦されない。あの頃マルチェロは、世界を大不寛容時代と名付けたけれど、今はそれよりももっと酷い。
 インターネットの中では毎日、誰かが順番に首を絞められている。首を絞めている人たちは正義の味方気取りだが、要するに匿名の癖に大声を出すだけの人達が大半だ。
 冷静な意見など社会にはほとんどなく、大声で叫んでいる人か、沈黙を貫いて項垂れている人の二択。
 マルチェロが今の現状を見たらなんて言うだろう?
 私は私に自問する。
 しかし、マルチェロはもういない。彼は柔軟剤の馨りのする毛玉の森の奥で、今もあのほつれ目を探していることだろう。
 それとも?
 それとも、セーターはどこか他の場所に繫がっているのか。
 私はマルチェロのセーターを両手に持って、じろじろと眺める。外側から見る分には、どこにも繫がっているようには見えない。
 私はセーターに顔を埋める。ごわごわとした羊毛の感触の奥、マルチェロの声が聞こえやしないかと。
 おおい、おおい。出してくれえ。
 こうなった今となってはウール百パーセントのセーターにしたのを、私は何度も悔いている。マルチェロはさぞ歩きにくいことだろう。もこもこでちくちくの地面。けれどカシミアは高すぎたのだ。カシミアは、高い。

 ダイニングテーブルの上には、ちぐはぐな議論が並んでいる。どれも的外れで、馬鹿げている。
 これはそういうものを並べた催しかね? ホーキング博士が宇宙の首にかけた手綱を持ちながら、物珍しそうに議論たちを見つめている。
 悪趣味議論展。
 宇宙はホーキング博士の握った手綱の先で、大きく開けたその口からダークマターをだらだらと垂らして議論たちを眺めている。
 さあ? 私はただこれを眺めているだけなので。
 私はミスター・ホーキングにそう言う。ホーキング博士は様々な角度からしげしげと議論を眺めて、どうしてこうなるのだろうとか、不思議な形状だとかぶつぶつ呟いていた。
 その間も議論は噛み合うことなく、噛み合ないのにも関わらず進展していく。それぞれが全く違う方向の違う意見を大声で言い当って、テーブルの上は喧々囂々と殺気立っていく。
 ミスター・ホーキングは今では部屋の隅で、何かを宇宙と語り合っている。
 第四次世界大戦は石と棍棒で闘っているだろうと言ったのは、アインシュタインだったか?
 テーブルの上の議論たちは、経済制裁と核ミサイルの脅し合いでバランスをとりはじめる。その上で更にもっと小さな議論たちが、顔と住所を隠して騒ぎ始める。
 マルチェロ、マルチェロ。
 マルチェロは古書店が好きだった。埃臭く、音のしない古書店。店主はいつも無口で、レジに本を持っていった時だけ口をきいてくれる。
 九百八十円ね。
 マルチェロが古書を眺めながら、私に話していた口調や耳の裏を私は思い出す。
 不思議だね。もうこの著者はこの世界から退場していて、どこを探してみてもいないんだ。けれど著者は本の中から、キャラクターやナレーションを通して我々に話しかけてくる。生々しく、鮮明に。
 マルチェロがいたら、ホーキング博士の連れた宇宙の口の中を覗いてみることだろう。自分に語りかける叡智の素が存在しないかと。
 魂は星になって、永遠に残る。
 そういったのは、日本の有名な俳優だったか。
 今はマルチェロはもういない。何処かにいるのかもしれないが、居場所がわからないのはいないのと同義だ。
 セーターの縫い目が、彼を私から永遠に奪い去ってしまった。
 素粒子とソリューションが似ているのは、何故だ?
 ミスター・ホーキングが宇宙を撫でながら、私に問う。
 全ての事象は最小単位まで解体することによってしか、根本的な問題解決は成されないからではないですか。
 私がそう答えると、ホーキング博士と宇宙は笑った。
 洒落が利いているじゃないか。
 宇宙の外側に私たちがいるのは不思議な気もするが、外側はある意味では内側であり、要するに何処から誰が観察するかの違いなのだから本来は何も矛盾はしていない。
 宇宙は捩じれている。それは元来が無から産まれた有だからだ。零には何をかけても零なのにも関わらず、無から有が産まれたのだ。内が外になり、表が裏になるくらいはどうってことはないだろう。
 全ては何処から誰が、どう観察するかに因るのだ。

 子供の頃の私とマルチェロはラムネが好きだった。
 ラムネの瓶にはビー玉が入っていて、それが炭酸の泡の中にいる時の佇まいを見つめるのが好きだった。
 そのビー玉を手に入れたいと思った。下から上にあがっていく気泡の兵隊に守られた、神秘の王座に座る玉。
 瓶を割って取り出したビー玉は、もはや神秘の力を失った単なる硝子玉に過ぎなかった。けれど私たちはその硝子玉を大切に宝箱にしまった。
 その硝子玉を持っていることに意味などなく、使い道も思いつかなかったが、それをただ持っているということに意味があたのだ。
 意味のある無意味。
 マルチェロはいつもラムネの話をしてから、哀しそうな視線をスコッチをいれたグラスの上から注いだ。
 あのラムネのビー玉のように、人生を愛せれば良かったのに。
 そんな風に言ってから、自分の口から出たロマンティックな戯れ言に思わず笑って。
 
 私の働く美術館では音がしない。人々の小さな息の音と、こつこつと床を叩く靴底の演奏だけが響いている。
 壁にかかっている絵画は、まるで規則正しく作られた窓のようで、私たちはその小窓から多くの世界を覗き見ることが出来る。
 様々な年代の、様々な場所の人間たちの見て来た景色。もしくは考えた思想。捩じれた脳が創りだした幻想。
 私はここで朝八時から夕方の五時まで働いている。睡気だけを我慢することが出来れば、とても良い仕事だ。
 神秘は一瞬の瞬きのように、さっと強く輝いて消え去る。けれど芸術家たちはそれをパレットに書き込むことが出来る。この世界の奇跡を。
 私は職場に並んだ小窓から世界を眺める。薄暗い部屋のテーブルの上に並んだ議論たちに、疲れ果てた時なんかは特に。
 醜さも美しさだと、窓たちは教えてくれるから。
 そうしているうちに五時になり、私は退勤する。ロッカールームでスーツを脱いで、お疲れ様ですと守衛さんに挨拶をして駅の電車に飛び乗るのが五時二十七分の三番線。
 薄暗い部屋に戻ると、私は液晶を叩き割ったテレビに挨拶をして、ソファに腰掛ける。ソファはぎしぎしと溜め息をつく。
 ソファにはいつもマルチェロを飲みこんだセーターが置いてあって、私も飲み込んでくれないかと期待をかけて抱きしめるのだが、セーターはちくちくとその羊毛で私の頬を刺すだけだ。
 私には欠けているものもあるが、それでもこうして夜六時を迎えられたことに感謝して、夕食を作り始める。
 青菜はお湯を湧かしてから。お米は洗いすぎずに。お肉は下ごしらえをして、豆腐は水切りの為に電子レンジで数分。
 ミスター・ホーキングと宇宙にも食べるかと訊ねたが、返事がなかった。仕方なくリビングの方に顔を出すと、ホーキング博士と宇宙は揃ってベランダにいた。
 夜ご飯は食べますか?
 そう言いながらベランダに出ると、夜になりつつある濃紺の空から無数の祝福が降って来ていた。
 奇跡だわ。
 私がそう呟くと、ミスター・ホーキングは振り向いて笑った。
 毎日、降っているのさ。皆が気付かないだけでね。
 私とホーキング博士と宇宙は、ベランダで祝福が降り終わるのを見ていた。それはまるで流星群のように輝いて、夜になる直前の斑な空を恐ろしいほどの光量で覆い包み、流れていく。
 私は自分たちが、ラムネの瓶の中のビー玉だと思った。
 そこに存在するだけで、意味のある美しい硝子玉だと。
 
 毎日、空から硝子玉が降ってくる。意味など持たない硝子玉が。それらは意味など持たないが、私たち一人一人が持っていることで意味を持つ。
 マルチェロの硝子玉も世界のどこかにある。
 割れていなければ、それでいいわ。私はそう言って、夕食の支度に再度とりかかった。

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