散文
久しぶりに途中で読みかけになっていた又吉直樹さんの"月と散文"というエッセイ集?を読んでみた。きっかけは日本語の特性について話す機会があったからだ。スギ花粉の免疫療法の薬をもらいにいく待ち時間に読もうと持ち出した。いきつけの内科は待ちがおらず、エッセイを1つだけ読めた。月曜とかより空いていそうなのでこれから週の後半に内科には行こうと思う。
1年ほど前に仲谷史子さんの"心に響く文章講座"を受けて、その影響で"月と散文"を買った。その前から"インスタントフィクション"という又吉さんのyoutubeのシリーズが好きで見ていてのセレクトだ。又吉さんの文章には"恥ずかしい"という単語がよく出てくる。人からこう思われるだろうということを恥じる。自分からすると「それは考えすぎだろう」と感じるところもあるが、想像力が豊かでその方向が個性的なのだと思う。
想像するのは、又吉さんは自分の個性を面白く表現することをしているのかな?ということ。あえて「考えすぎだろう」と思わせるくらいのところまで書いているのか?それとも本当はもっと考えているのに読者にあわせて抑えた表現をしているのだろうか?と。いや、やっぱりやってるフリはバレるから本人がその違和感を感じない程度に正直に表現しているんじゃないかなぁと思っている。
同時に他人のことを「考え過ぎやろ」とした時に、それは自分にも当てはまる可能性もあるよねと思い至る。どこかで「心配事の90%は起こらない」と聞いたことがある。10%も起こるんなら備えたほうがいいよねと思う人もいるだろうが、だいたい実現しないからもっと楽しいことを考えようぜ!というのが文脈の意図だ。
でも、こうも思う。自分より考えすぎだと感じる人を見ると、面倒臭えなと思いながらも面白くて愛しい。それは表現が巧みだというのもあるけど、もろもろひっくるめて「なんか肌にあう」人だと感じているからだと思う。
去年こちらで書いた"神についてのひとつの考察"という文章に、人は神(魂)の幸せのために生きているという意味のことを書いた。全知全能の創造主が、"未知・未確・不能で、想い通りにたまになって悦ぶ"そんな全知全能ではできない体感を味わうために諸々は存在している。そんな視点が人の中にはあるっぽい。そこと繋がることはできるが、完全にひとつそのものにはならない。一致しきると"未知・未確"が味わえないから。
ほいで感じてほしい感覚の総量は決まっているらしく、満たすと双六で言うゴール。だいたい”怖い”"面倒臭い””恥ずかしい”のどれかがメインとなるそうだ。その感情込みで、やると"ホワっと"する体感覚が得られる動きを1番、想いを実現するゲージが貯まる。
10年ほど前に初めて作った唄を路上で初めて唄うときは2時間ほど躊躇してうろうろしてから唄ってみた。結果は誰も見向きもしないと言うこと。気づいたら小1時間自主練をしていた。なんなら途中まで「誰か見向きしないかな?」と思いながら。途中からはそれも忘れていた。初日ではないが、周りを気にせずやっているとお水やお菓子の差し入れが増えてきた。そんな物だと思う。
迷惑をかけられたい人もいる。というとこは迷惑をかけてあげているという観点もある。中学校で部活テニスの外部指導員をしているが、仮入部後の正式入部の編成式の日に「応援されるような人になって欲しいと思います。頑張ってください」と伝えた。これは「こいつにだったら、迷惑かけられてもいいや」と思われるようになって欲しいと言う意味だ。次の部長候補が去年の同じ日に「迷惑をかけないように」と言っていた。彼が部長になった時には先の言葉を送ろうと思っている。
ちなみに、自分の中にいる神(魂)の視点を感じると、「そんなにお前が喜んでくれてるなら、まあええわ苦笑」という喜劇チックな心境になる。またセルフワークでもやってみようかな?
追伸:面倒臭いので推敲はしません。ここまで呼んでくれた方、ありがとう。