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「格差」はないので、端的に「貧困対策」しろ
日本に「格差問題」はないので、端的に「貧困対策」をしたほうがいい。
これは、イェール大学の成田助教授の提案。
(最近、このnoteで成田さん引用が多くなっているが、また本質をつくコメントをしていたので、考えてみたい。)
成田さん曰く、日本には、(アメリカのように)資産何兆円みたいな圧倒的な富裕層がいない。
だから、「100人から◯兆円の徴税を行う」みたいなことはできない。
そして、こういう富裕層が日本にいない理由は、新しい産業が生まれていないからだ。社会的に格差が開くときというのは、新しい産業が生まれて、キャピタルゲインやボーナスなどで一定数の人間が富を築いたときだ。
なぜなら、貧困層の底辺はそれ以上、下がりようがないから、上の人たちの資産が拡大することでしから格差は広がらない。
日本では、格差を問題にするほど、上が潤っていない。もちろん、ある程度の人数はいるが、それは新たな産業が生まれたときに生まれるレベルの規模ではない。
格差はない。
でも、
貧困問題は確実に存在している。
だから、成田さんは、「成長と分配」というような考えではなく、端的に貧困対策をすべきだという。
全くそのとおりだ。
また、それゆえ、貧困対策とは切り離して「成長」をどう作るかの議論も必要である。
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さて、上記の議論を受けて、貧困対策の本質について考えてみたい。
それは次の質問に集約される。
貧困対策として、税金を使って支援すべき対象は誰か?
そして、どんなプロセスが必要か?
その核心的なところを改めて確認したい。
都内であれば、15万円の手取りがあれば、生きていくことができると仮定しよう。地方であれば10万でもよいだろう。グローバル資本主義社会において、金を稼いで、必要なものを市場で購入するという分業体制が基本だからだ。
貧困対策の対象者の本質条件は、この金額を稼げない人ということにする。
しかし、この「稼げない」については1つ吟味する必要がある。
「本人の努力でどうにかならないのか」ということだ。
まずは一定の努力で月15万稼げないのか、を検討すべきだ。何かしらの理由で読み書きができないなら、それが不要な力仕事をするとか、身体に障害があれば、PC中心でできる仕事など、選ぶことはできるだろう。
このとき、どうにもならないケースは大きく3つある。
1.身体的な障害
生まれつき或いは事故や病気などの理由に関わらず、身体的な障害を持っている場合だ。もちろん、そういう障害があっても自らできる仕事を見つけて頑張っている人もいるが、それは例外として扶助があるべきだろう。
2.精神の問題
難しいのは精神的な問題だ。ただ働きたくないだけなのか、病気というレベルなのかの判定は難しい。
ただ、仕事を選んでいるだけの人もいる。コンビニのバイトなんてしたくないとか、力仕事はしたくないとか、会社のブランドがとか、人間関係がやだとか、協調性ないからとか、いろいろな理由により、怠けている人だ。
が、やはり、あるラインを超えれば、それは1と同じ用に身体に根付いた問題と考える必要はあるだろう。
3.育ち・環境の問題
また、身体や精神は健康だが、社会に求められている仕事を遂行する能力がないという問題もありうる。
それは、その時点までに一般社会に必要なスキルセットを身に着けられなかったということだ。
これも心苦しいが、幼い頃に教育を受けれなかった、言語的な刺激が少なかったなど、いろいろな問題がありうる。
また、地方の田舎で生まれ育って、家族がいたり、その土地が好きな人であれば、その土地を中心に考えるのは自然だ。
地方には仕事がないが、都会に出てくれば仕事があるというような場合、それは強制できないのではないか。
つまり、われわれは、どのような能力を持ち、どういう場所、時間に生まれてくるかわからず、それが一般社会において不利な境遇というのはあり得る。そこは社会の失敗であり、社会全体で包摂すべき。
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以上、既に大体このような筋で、実際の制度が作られているだろう。そして、生活保護制度の問題は、「自分で努力できるのでは」のラインをどこで引くか、というところに根本問題がある気がする。もう一度このような原則で運用方法を見直してもいいかもしれない。