『語感踏み』の定義について
こんばんは。Sagishiです。
今回は『語感踏み』について、記事を書いていきます。
最近言語学まわりの知識がつきだしたことで、『重音節韻』を明確に説明できるようになりました。「重音節韻」を理解したことで、『語感踏み』の定義が、わたしのなかでよりクリアになりました。
そこで、改めて『語感踏み』とはどのようなものなのか、その仕組み・定義について検討・考察をしようと思いました。
1 『語感踏み』とは
『語感踏み』とは、2019年1月頃からラッパーの韻マンが主張をし始めた押韻のスタイルのことを差します。
具体的には、下記のような例を差します。
上記の例では、それぞれの押韻ペアにおいて、音節数やモーラ数が異なっていたり、各音節の母音が異なっていたりしますが、ペア全体で一定レベルの「響き」を達成しているようにわたしたちは感じます。
つまり『語感踏み』による成果は、母音すべてを合わせなくても、果ては音節数やモーラ数をあわせなくても、効果的なrhymeの「響き」を得られることだと言えます。
韻マンは自身の『語感踏み』について、動画やインタビューで下記のように答えています。
韻マンの考えをより定義的にまとめると、下記の3点になりそうです。
2 『語感踏み』の定義を考察する
ここでは、韻マンの『語感踏み』の3つの考え方が、果たしてどういうものなのか、また正しいのかを検討していきます。
2-1 弱い音
韻マンの言うところの「弱い音」とは、動画やインタビューを参照する限りは、例外も多数ありますが、主に「重音節の後部要素」を差しているように思われます。
「重音節」については下記の記事を参照。
これは「大統領」や「R指定」など、重音節が存在するような単語を主に使って説明していることから分かります。
しかし、「重音節の後部要素」を「弱い音」と表現して良いかは、かなり疑問です。言語学では、日本語の「重音節の後部要素」を差して「弱い音」とは一般的には言わないからです。
なぜわざわざこのようなことを書くかと言うと、一般的に学問領域では、日本語に「強い音」や「弱い音」があるとは主張されません。『語感踏み』を分析・評価する際に、その音が強いとか弱いとか言い始めると、学術的に全く根拠がない議論になってしまいます。
そうなると、科学的・客観的な議論にはならず、みんなが好き勝手に主観的な意見を投げつけ合うだけになり、生産性がありません。主観的に「強い/弱い」を感じるというのは別に問題ないですが、いざ『語感踏み』の定義を検討するとなれば、そういう話にもっていくのは危険です。
「弱い音」があるという韻マンの感覚はそれはそれとして、『語感踏み』の定義にはストレートに使うことができないと、わたしは考えます。
韻マンが言う「弱い音」が何かを詳細に検討すれば、見えてくるものもあるでしょう。このうち重音節に限っては、重音節の後部要素は、音節核が存在していないため、認知上の卓立度/重要性が低い=弱い音、という認識をしているのだろうといえます。
2-2 母音を崩す
「母音を崩す」ですが、ひとによっては「母音を濁す」という表現にしているひともいるようです。
ここから分かるのは、韻マンが言ういわゆる「弱い音」というのは、別の母音で置き換えることが可能だ、ということです。前述した通り「弱い音」という言葉はあまり使いたくないので、このような音を、今後は『崩せる音』として扱っていきましょうか。
このうち『重音節韻』と『長短韻』については、下記の記事にてわたしが述べている通り、非音節核要素同士で置き換えができるといえます。
注意が必要なのは、韻マンが『語感踏み』と主張しているrhymeの中でも、実は単なる『重音節韻』あるいは『長短韻』だった、という事例が存在していることです。
音節ごとに分解すると、「pu̇/u̇」「rin/zʸi」「ȧ/mȧ」「rȧ/Qcʸȧ」「mȯo/sȯ」「dȯ/ftȯ」という音節ペアになり、この事例だと韻マンが言うところの「母音を崩す」手法が使われていません。すべての音節ペアの母音が同じであり、『長短韻』を活用した普通のrhymeだといえます。
もちろん、傾向として『語感踏み』に近い状態にある事例だ、ということは否定はしませんが、『語感踏み』のオリジネーターである韻マンが、これは『語感踏み』だと主張しているものの中でも、実際のところは『語感踏み』とは言えない事例というのは多数存在しています。これは非常に注意が必要です。
わたしが認識している『語感踏み』とは、『異なる母音同士が対応している』その結果として『モーラ数や音節数に差異がある』にも関わらず、ペア全体として「響き」が生じているように感じる事例を差します。つまりは、以下のような事例を、わたしは『語感踏み』だと考えています。
これが『語感踏み』と「その他のrhyme」の決定的な違いだとわたしは考えます。
どういう科学的な挙動でこのようなrhymeが実現されるのかは全く明らかになってはいませんが、ともかくそういうことがあり得るのだ、ということを認識することからやっていくしかありません。
『語感踏み』についての追加検証は、以下で色々と進めていこうと思います。
2-3 『崩せる音』
では『崩せる音』というのは、どのような条件で起きるのでしょうか。
残念ながら現時点では全く不明ですが、実例から「傾向」を伺うことは可能です。A~Fの例に共通している点を探してみましょう。
A~Fのペアの母音が一致しない箇所は、第2モーラあるいは第3モーラから始まり、おおむね後ろから第3モーラで終わる範囲です。
「後ろから第3モーラ」までというのはかなり重要なポイントです。というのも、日本語の東京方言の語アクセントには一定程度傾向があり、その1つには「語末の第3モーラ目から下降調の開始があることが多い」というのがあります。特に外来語の多くにこの傾向が適用されています。
もしかしたら、『語感踏み』は日本語の規則・傾向をうまく活用したrhymeになっている可能性があります。そこでA~Fのペアが、この規則に合致するかを見てみましょう。
ABDにはそれが言えますが、CEFは違いますね。「後ろから第3モーラ」というのはかなり重要なポイントだと考えますが、アクセントとの関連は不明そうです。
『語感踏み』にたいして、「最初と最後の母音を合わせれば良い」という指摘をするひともいますが、「ひとつなぎ/大津波」や「チキンラーメン/四畳半神話大系」のような例外も存在していますし(これらの例が適切なのかはよく分かっていませんが)、そのように単純化していえる根拠が現在のところありません。
傾向として、「最初と最後の母音を合わせる」ことが『語感踏み』の成立に寄与している可能性はありますが、なぜ「最初と最後」なのか、最初あるいは最後だけの片側だけではだめなのかなど、分かっていないことが非常に多いため、軽率に断言をすることはできません。
いずれにしても、何らかのタイミングや状態において、『崩せる音』というものが発生することを前提にしていくことは、『語感踏み』を考えるうえでは重要になってくるといえるでしょう。
もしかしたら『語感踏み』は、心理学方面からのアプローチも必要かもしれません。また何か分かり次第、記事にするつもりです。
2-4 元の発音を曲げる
時にラッパーは語のアクセントやストレス、発音を曲げて、rhymeの「響き」を実現します。これは英語においても行われるもので、英語では『Forced rhyme』と呼ばれています。
『Forced rhyme』については、Paul Edwards『How to Rap』(2009年)の日本語訳版P105にも、「言葉を曲げる」という表記でその記載があります。
『語感踏み』にも、『Forced rhyme』のような技術が一定程度は使われていると考えても良いでしょう。しかしいったいどこが『崩せる音』で、どのように「発音を曲げ」れば、「響き」のある『語感踏み』になるのかは全く分からないのが現状ですので、とりあえず発音操作は『語感踏み』に使われる技術であることだけをここでは認識しておきましょう。
3 『語感踏み』の定義とは
さて、まとめになりますが、ここまでの考えを踏まえたうえで、現時点でのわたしが考える『語感踏み』の定義を下記に書こうと思います。
まぁだいぶ置きにいった定義ですね。ライムである以上は、①「母音の押韻」が含まれていることは必須だと考えます。しかし、どこをrhymeすれば良いのかは現状不明のため、場所については一旦任意とします。(前述の通り、傾向としては最初と最後の母音を合わせると良くなることが多いです)
そして、重要なのが②ですね。『崩せる音』を異なる母音に置き換えている、つまりは『異なる母音同士が対応している』状態が『語感踏み』の核だとわたしは考えます。前述した通り、『重音節韻』と『長短韻』のようなスタイルは除外します。
奇怪なことではありますが、『語感踏み』においてはモーラ数や音節数に差異が生じる状態が許容されます。これは本当に謎なので、いずれ調査をしないといけないと感じています。
かつ③を満たすことが重要だと考えます。どうしても③は主観的な領域になってしまいますね。「響き」のレベルが一定以上というのは今後も使っていこうと思っている考えなので、将来的には「響き」を定量的に評価することが必要だと感じています。
あくまで、「現時点」での考える定義なので将来的に変更はありえます。重要なのは、主観的な思い込みで議論するのではなく、科学的・客観的・論理的にどう言えるのか、再現性があるのかをベースにすべきということです。たとえ考案者の韻マンの主張だとしても、そこに誤解や誤認識、間違いがないかはよくチェックしないといけません。
また、定義には書いていませんが、『語感踏み』は傾向的に長いほうが「らしい」状態になります。例えば、「パチンコ/パライソ」みたいな4モーラ程度のペアが『語感踏み』らしいかというと、若干疑義が残ります。これは完全な体感的な意見ですが、5モーラとか7モーラとかになるとだいぶ『語感踏み』らしくなってきます。これは何故なのかは全く謎です。
さらに、「らしさ」に寄与するものとしては、『語感踏み』を好むひとは「単語韻」を推奨しています。「ニジイロクワガタ/伊能忠敬」のようなスタイルが「単語韻」です。たいして、「ニジイロクワガタ/似た色だから」のように、複数の品詞で構成されたり助詞や助動詞が接続したりするような「混成韻」や、あるいは熟語や慣例句同士ではないようなペアは推奨されないような傾向があります。まぁ、これは副次的な知識として知っておくと良いかなと思います。
異論などがあれば、ぜひお願いします。