『火花』(高山文彦) 読後
もっと早くに読んでおけばよかった、という本がたまにある。
ハンセン文学の小説家、北条民雄の作家生活と川端康成の交流を克明に取材して記した『火花』もその一冊だ。
高山さんの本は『少年A』くらいしか読んでいなかった。宮崎県高千穂の出身で、この書は複数の賞を受けた高山さんの代表作のひとつ。
コロナイウルス感染が世界に広がってからハンセン病やかつては伝染病といわれ差別を受けた水俣病のことばかり考えてしまう。
ハンセン文学には感動する、というよりただただ教えられる、浮かれた道を歩いているような自分が導かれるという感じがする。
川端康成と北条民雄の交流は2年いう短さだ。
昭和10年12月15日に北条が川端に送り、川端が絶賛した返書を書いたのは20日。その頃は伝染病として恐れられ、患者の手紙からでも伝染るのではないかと言われていた。志賀直哉は北条の原稿を恐れて読もうともしなかったとか。(志賀直哉ファンの私にはショックだ)
川端は北条の亡くなった次の日、創元社社長の小林茂と弔問に全生病院へ。亡骸を拝顔。当時は遺骨からも伝染るとされていた。
事務本館を出ていよいよそこからが療養施設というところに、赤い液体が流れているコンクリートの小川が横たわっていた。赤い液体は、昇汞水という消毒液だった。事務室や医局がある小川のこちら側は「無毒地帯」と呼ばれ、患者の往来は堅く禁じられていた。小川の向こう側は「有毒地帯」と呼ばれていた。有毒地帯から自分たちの暮らす「社会」へと帰って行くとき、外来者はこの赤い小川で長靴を洗うのだ。いわば小川は、あの世とこの世を分ける境界であり、患者たちになおのこと隔離の身の上を深く突きつけ、外来者には癩の恐ろしさを強く印象づけた。
川端が北条の亡骸に会いに行く場面を高山はこう描いている。
強制隔離のその上に、さらに厳しい境界線があったのだ。
文学界の混乱の中苦悩して『雪国』を完成させながら、北条をはげまし作品を書かせ、自分もさらに文学的感化を受ける川端。川端はその頃三十代半ば。
この人達を前にして私の自省で、文学の厳粛な姿と対面しているようだった。
北条の亡骸を見、北条とともにハンセン文学を志す仲間に会ったときを川端は、こう記しているという。
文字が並べば、文学、文字が並べばそれが短歌と呼んで、いまの世の中に溢れかえっているが、文学もしくは表現の本当の姿とは?と私自身も自省せずにはいられない。