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左右反転ワールド(ALL)

気が付くと俺は道路反射鏡の中にいた。道路反射鏡とは俗にいうカーブミラーの事だ。よく住宅街の十字路とかにあるオレンジ色の棒の上にある小さなひさしのついた丸い鏡だ。確かいっぱいある反射鏡を片っ端から眺めて歩いていたはずだ。

この街に引っ越してきた時、随分反射鏡がいっぱいある街だなと思った。
住宅街という事もありガレージ付きの家も多く意外と乗用車が走る狭い道や曲がり角なども多いので反射鏡もその分多くなったという事なのだろう。中には反射鏡の中にさらに反射鏡が写っていてこれではどれ見ていいのか迷わないかなと思ったりもした。

その反射鏡の中を眺めつつ、空がとても奇麗だなあ、ああ鏡の中も街がずっと続いているんだなあ、などと当たり前の事を思いつつ順番に眺めて歩いていた。鏡の中の街もずっと続いていてそこではこちら側と同じように左右反対の人たちが生活しているわけで、それは当たり前なんだけど鏡なんだから、だけどすごく不思議というかある意味驚きに満ちているなどと考えていたら、一瞬反射鏡に移った光で目の前が真っ白になって気が付いたら左右反転した世界にいたというわけだ。

俺も流行りの異世界転生?とも思ったが、生憎、子犬を助けるためにトラックに飛び込んだり、ブラック企業で連日徹夜残業したり変な神様に出会ったりはしていないし、そもそも死んだ覚えもないので、そおいうわけではなさそうなのだ。勿論特殊な能力を使えるようにもなってもなさそうだしそこはちょっと残念な感じもした。

左右反転した鏡の世界は一見あまり変わらない。が例えば文字などが
書いてある看板や道路標識、住所表示などをみると鏡の中だとよくわかる。
ところが自分の服にあるデザインされた意味のない年号の数字は左右反転していないので逆にああこんなことなら無地の服を着てくるんだったなどと
意味のない反省をする余裕が最初のうちはまだあった。

そして自分の家に行ってみようと思った瞬間、その違和感が眩暈のように襲ってきた。つまり方角が逆、曲がる道も逆、目印も逆なら風景全体が逆なのだ。ただなんとなく歩いている分にはあまり意識しなかったのだが、ひとたびいつもの記憶した道をたどって帰ろうとしたら足元からぐにゃりと倒れそうなほどの精神的な衝撃を受けた。

知覚と記憶の混濁から吐き気すら催し、歩くことさえままならない状態に
なるとは意外でもあった。見慣れた風景が左右反転しただけでまるで悪夢の中を歩いているようじゃないか。今はとにかく家に帰って一刻も早く横になりたいと心底思った。立っているのが景色を見ているのがつらかったのだ。
そうして何度も曲がり角を間違えては戻り、知ってる道で間違えては悪態をつきながらようやく左右反転した我が家に戻ることができた。

本来左にあるべきはずの右側についたドアノブを握り慎重に左に回して自分の左手でドアを開け、右側から体を滑り込ませるようにして入った。毎日無意識にやっている行為が左右反転しただけでこれほど困難だとは!ドアに鍵がかかってなかったのは幸いだった。自分が今持っている鍵では合わないであろうとはその時は気が付かなかったが。

待てよ、ドアが開いているという事は家族がいるのではないか。いや、俺の家だから当然家主である俺がいるのではないか、ん、あれ?そうだ!今まで気が付かなかったがこの世界の俺は一体どこにいるんだ!?本来鏡の世界の俺はいつも俺と一番近い位置にいるはずだ、手を伸ばせば触れられるのではないかと思えるほど近くに。(実際は手に触れるのは鏡の表面なのだが)で、妻と息子がいた。

正確には、無愛想で無口な妻と無表情で無気力な息子がいる気配はあるもののいつもの休日よろしく家長の存在に無関心で玄関に見に来る様子もさらさらなかったのはこの際とても助かった。勝手知ったる他人の家にこそこそ侵入するような後ろめたさを感じつつも、本来なら玄関入って右側にあるはずの俺の部屋に慌てて足をもつらせながら左折して飛び込んだ。

俺は部屋にはいなかった。俺は外出しているようだ。いや、本当の世界の俺がこちらに来てしまったので本来いるはずの俺は逆にあちらの世界で同じように苦しんでいるのかとその姿を想像したが、とても笑いごとではなかった。笑えないのは文字通り他人事ではなかったからだろう。俺はとにかくベッドに寝ころび酩酊したような感覚が正常化するのを待った。

とそこにあの声が聞こえた。声だけで嫌悪感を感じさせる唯一の声。その声はややかすれ気味に口の中でもごもごとこう言ったのだ。「ただ今」ああ初めて聞いてから何度聞いても好きになれない聞くたびにいやな気持になるその声は紛れもない俺の声だ。録音か何かで初めて聞いた時の衝撃は忘れられない、これが俺の声?嘘でしょあはははははは!だが今は笑いごとではない。

誰だこいつ?俺の部屋のドアを開けた男の顔を見たとき咄嗟に俺はそう思った。だがよく見るとそれは俺だった。髪型から目鼻口のパーツに至るまで左右反転しているものの、全て俺に間違いない。だがこの最初に感じた強烈な違和感は、ふと予期せぬ場所で例えば電車に乗った時にトンネルに入って外が暗くなった際にふいにガラスに映った自分が最初自分だとわからず気が付いて変な気持になるとか、意図しない場所で知らない人間に撮られた写真やビデオに映っている自分の姿を確認した時の感覚に近い感じだ。

つまり自分で自分を見ようと意図しないで見てしまった時の顔だ。鏡に映る準備をしなかった時の自分の姿は妙にグロテスクだ。自分の声を録音して聞いた時以上に何かゾッとするものを感じさせる。背中は丸まり、髪の毛の後ろの方は変な方向に立っていて、口元も締まりがなく、瞼も片方だけ重く垂れている。俺って普段こんな顔でこんな表情でこんな目つきで人と話し、接しているのかと。

向こうの俺も始めのうちこそそんな感じの自分に見られることを意識しない他人な顔をしていたが、俺の違和感に気づきいつもの鏡の中の俺の顔になった。ああいつもの俺じゃないか!なんだか懐かしいような嬉しいような誰も知ってる人がいないパーティーで唯一知ってる顔に遭ったようなそんな安心感を覚えた。やっぱりお前は鏡の中の俺じゃないか、どこに行ってたんだよ、俺!俺は嬉しさのあまり俺に抱きつき、向こうの俺も俺に抱きついてきた。だが、何故か同じ方向に頭を押し付けるのでうまく抱き合うことができなかったがw

いつしか俺たちは泣いていた。おいおい泣きながら互いを抱き合っていた。奴の左肩は俺の涙でびしょびしょになっていた。それは俺の右肩も奴の涙で濡れているという事だ。なんだかんだで俺たちは長年苦楽を共にした仲であり最もお互いをよく知っている一番の理解者だ。初めてのデートの時も、子供が生まれて病院に行く際にも、仲間に裏切られて心が折れそうな時も、絶妙な距離感でじっと見守ってくれていたじゃないか!そんな思いが一気にこみあげてきたのだった。今までありがとう俺。これからもよろしくな。何かそんな言葉が頭の中に浮かびふと気恥しくなって奴の顔を見ると奴もなんとなく気恥しい表情を浮かべていた。

若干頬を赤らめながら見つめあう同じ顔のおじさん二人。そうやってぼんやりとお互いの物思いにふけりつつ気が付けば俺は元の世界に立っていた。あちらの世界にいた時間は長かったようでもありほんの一瞬でもあったかのようにも感じられた。そうか戻ったのか。まだまだ向こうの世界の俺にはいろいろと話したい事やかけたい言葉があったのに、と思いつつも無事帰ってこれて少し安心した。左右反転した世界も刺激があったが、いつもの平凡な景色も悪くないな、俺はいつもの道をゆっくりと歩きながらそう思った。

「じゃあ、また。」それは奴が言ったようにも聞こえたが自分が呟いたのかもしれなかった。空は相変わらず奇麗で道路反射鏡はやっぱり少し多いような気がした。

おわり

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