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人体を蝕む脳内プラスチック粒子問題

 この夏、わたしが信頼して目を通しているジャーナリズムThe Guardian誌の配信で見つけた記事から。
 
「わたしたちの身体中にプラスチックが溜まっている」
 *24個の脳サンプルで、その重さの平均0.5%がプラスチックだった。
 *アルツハイマー病を含む認知症で亡くなった人の脳には、最大5%のプラスチックが。(アメリカ国立衛生研究所発表)
 *16個の骨髄サンプルのすべてにプラスチックの含有があった。(『Journal of Hazardous Materials』)
 *股関節や膝の手術を受けた45人の患者すべての股関節と膝関節にプラスチックの含有。(中国北京)
 *23個の人間の精巣および47個の犬の精巣すべてにプラスチック。人間のプラスチック濃度は犬の三倍。(『Toxicological Sciences』)
 *勃起不全の治療のためのインプラントを受けた5人の男性のうち4人の陰茎にプラスチック粒子。(『International Journal of Impotence Reseaech』)

 さらにリストは続きますが、精液にもプラスチック(中国とイタリアで発表)、胎盤にもプラスチック汚染。頸動脈から除去した脂肪の蓄積物やプラークからもプラスチック。
 つまり、人の身体の至るところに、プラスチック粒子が蓄積されているというのです。
 そうした廃棄物は肝臓に多く留まるのではという素人考えはハズレで、特に脳に集まる傾向があるとのこと。そして、感受性の強い生殖器にも。

 各国で研究発表がなされているにも関わらず、たとえばアメリカ食品医薬品局(FDA)は、「プラスチックは特に人間の健康にリスクをもたらすことはない」と述べ、またこの記事の筆者は「こうした研究発表を、ごく一部の億万長者たちは入手していながら口には出さない」と書いています。
 研究者たちは、プラスチック粒子がどのように健康に被害を及ぼすか解明されていない点は多くあるとはいえ、一刻を争う事態になっていると警鐘を鳴らしています。
 プラスチックそれ自体というより、身体が、プラスチックを作っている化学物質に曝露されることで起こる健康被害は明白だということです。

 人の身体に害を及ぼす汚染の種類は多々あるけれど、プラスチックは、有害物質を体内に運ぶ役割を持ったいわば乗り物の、メインストリームになっているのでした。

 魚や鳥、動物たちがプラスチックを食べてしまっていることは誰もが知っていること。地球上がプラスチックのゴミの山だということも。海岸に打ち寄せられたプラスチックの映像を見たことがない人はいないかもしれません。
 でも、プラスチック製品をできるだけ避ける、という回避の仕方ではどうにもならないところまで来てしまったのですね。水にも空気にも、塵や埃にも、プラスチック粒子が引き連れてくる化学物質が付着し、汚染されているというのだから。

 そこで解決法について、大勢のお仲間と考え、分かち合っていく機会を得ました。様々な洞察を交換しているうちに、この問題はメインストリームのニュースになり、世界中を駆け巡っていきました。

 プラスチックで水を飲まない、プラスチックのストローを使わない、買物はマイバッグで、キッチンにできるだけプラスチック製品を置かない、プラスチックを含め、ゴミを辺りに捨てるような真似はしない、、、等々、対策として改められる行動はいくらでもありそうですが、それらは、全部、程度問題であり、かつ、部分問題です。

「少しでも」害を減らす。
「しばらくの間」これで害を防ぐ。

 そんな妥協策ではびくともしないことは、これまでを振り返れば明白です。でも、この問題だけではなく、あらゆる問題に対するあらゆる対策は、「せめて」と「少なくとも」でできていますね。問題の根本ではなく、症状に対しての応急処置に過ぎないものばかりですから、その救急箱の役割は「せめて」「少なくとも」であるのは当然です。

 それに、私たちに一番身近なプラスチックは、ペットボトルでもストローでもなく、海や山に投げ捨てられるスナックの袋でもなく、何よりもまず、クレジットカードではないでしょうか。
 日本では、何種類ものポイントカードというものも加わるのかもしれません。

 そう、プラスチックは、今や貨幣そのものなのです。
 紙やコインの時代は過ぎ去ろうとしていて、プラスチックが生活の要になっています。プラスチックを遠ざけよう、とスローガンを掲げても、正直な思いは、プラスチックこそいちばん大事、ということになっていると言えないでしょうか。
 便利で軽くて効率No.1. これぞ、現代の貨幣経済社会が希求しているもの、すなわち、プラスチックなのでは? そしてそれが、人体を蝕むという本末転倒を引き起こしているのでは?

 お金自体は、良いものでも悪いものでもないと思います。元々は、人がお互いを支えるために、分かち合いをする。その際に使用する便宜的なツールだったはず。

 でも、お互いを支える、分かち合う、ということよりも、お金を持つこと、手元に溜めておくことこそが大事、となると、お金の問題は、続きます。それどころか、問題は膨らみます。

 つまり、お金は流通のためのものではなく、所有するもの、ということになった時、助けとなるツールとしてのお金の意味は消滅したと思うのです。その無意味さの象徴が、例えばプラスチック粒子の害として知覚されているのではないかと。

 本来は、あらゆるものが、調和の中に息づいていたはず。平穏な静けさと、その静けさに溶けていく笑い声や歌声、愛のささやき、朝夕のさえずり、、、草葉のすれあう音。

 あらゆるものが、あるがままに在った。。。それを目撃するには、太古の昔に戻らなければならないとしても。

 それが崩れたのは「所有の概念」が生まれたときではなかったのかと思うのです。
 お金だけでなく、「この自分の身体」も自分の所有物、という考えに取り憑かれ、それがデフォルトになったとき。所有こそが、生命の拠り所だという勘違いが起きたとき。

 そのとき、静けさは去り、騒がしい金切り声が四方に響き渡り、調和が崩れて代わりに、凍りついた闇が現れる。すべての生命が翻って一気に死と化す。生命が伸びていく代わりに、全員が、死に向かって突進していく。

 そんなふうに見えます。人間が自分の生命の支えだと信じているお金=プラスチックに依存するとき、それが翻って生命を脅かすのは、当然の、理に適った摂理のように感じます。

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 海岸でジリジリした陽射しに灼かれるのが何より好きだと思いながら、思春期から今まで来ました。南の島のビーチで過ごす休日が何よりの贅沢でした。 

 でも、海辺の自然の中にあって、わたしは、自分の身体だけが、周囲から浮いている、分離している、美しい風景に溶け込めないでいる、そんな醜い自分の姿を強く感じていました。

 椰子の葉は、ただゆらゆらと揺れていて、波は打ち寄せても必ず還っていきます。わたしだけがなぜ、どこにも、永遠に留まれないのか? 
 わたし以外はすべて調和しているのに、わたしの心だけが、いつもうるさい。自分にとって、最高の場所、状況、感覚に包まれていながら、なお、心の底で蠢く無力感。ツーリストであることの恥ずかしさ。しばらくはそこに留まり、でもまもなく別世界に去っていくという狡さ。その他いろいろ。

 「自分が」という概念自体が、調和の中に溶け込むのを拒んでいるということに気づいたのは、三十代に入ってからでした。「なぜ自分は」「わたしだけが」といつまでも止まらないマントラ。。。

 そもそも、わたしたちは、なにものかを「所有する」ことなど、できるのだろうか。お金や土地、ネックレスや一枚の絵画、、、それに自分の身体も。または、自分の心さえも?
 そんな疑問が心の中心に降りてくるようになって、美しい海岸は、「誰も、なにものも、所有できない」「できるつもり、所有しているつもりになっているとき、私たちは”問題もまた持っているつもりになる”」ということを検証する場所になりました。
 自分という所有物、分離したアイデンティティを手放して、の前の椰子の木と共にゆらゆらと揺れ、打ち寄せても還っていく波に心を繋げ、白い砂粒と一緒に、ただ静かに海水に洗われる。。。そのような瞑想が、美しい海岸を守り抜けるのかどうか、それはわかりません。でも、そのひとときに心の奧の静けさに触れることがあり、それは、わたしにとって、かけがえのない経験です。

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 プラスチック粒子のおかげで、また思い出しています。

 生命はこの身体にあるのではなく、あらゆるものの調和の中にあるのだということを忘れないでいたい。調和を見失わず、静寂の存在を心の中に確信することで、もしかしたら、美しい海岸は、その静寂に、いつまでも寄り添ってくれるのではないかしらと、優しい気持ちになるのです。

 あらゆる”問題”は”先生”なのだとつくづく思います。根本的な解決、、、所有のない宇宙に、太古の世界に、戻っていきたいです。

(冒頭写真はイメージです。脳内映像ではありません。)

 





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