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ハリール・ジブラーン/愛について、など。

 ハリール・ジブラーンのドローイング展と、オープニング・トークに行ってきました。(A Greater Beauty: The Drawings of Kahlil Gibran @Drawing Center.)

 ジブラーンは、言わずと知れた『預言者』の作者です。
 『預言者』(原題<The prophet>)は、たぶんほとんどのアメリカ人が知っています。もっとも一般的なコーヒーテーブル・ブックスの中の一冊です。“聖なる本”と呼ばれるものでもあります。30カ国語に訳されていますから、世界中に知られていると言っていいと思います。

 ジブラーンは、聖職者ではありません(もっとも、誰もが聖職者と言うこともできるわけですが)。
 『預言者』のみが知れわたっていますが、彼は、絵描き、彫刻家、小説家、そして音楽家でもあり、詩人です。彫刻は、パリで、ロダンから直接手解きを受けています。絵と彫刻の個展もパリで開いています。早世でしたが、大量の作品を遺しています。
 日本語訳が何冊も出ています。カリール・ジブランと表記している方もいます。

 神谷美恵子氏の『ハリール・ジブラーンの詩』(抄訳)(角川文庫)を、いったい何冊買ったことか。小さいギフトとしてあちこちで分かち合い、その詩の一部を口頭で大勢の方に紹介もしてきました。

 ここで改めて、一篇をシェアしたいのですが、かなり長くなるので、その前半だけ、挙げておきます。小林薫氏訳『予言者』から、そのままお借りします。

〜〜〜〜愛について〜〜〜〜

愛があなたを招く時は、愛に従いなさい。

たとえその道が、苦しく険しくとも。

愛の翼があなたを包む時は、愛に身を任せなさい。

たとえ羽交いに隠された愛の剣が、あなたを傷つけるようになろうとも。

愛があなたに語りかける時は、愛を信じなさい。

たとえ北風が花園を荒らすように、
その声があなたの夢を砕くようになろうとも。

愛は、あなたに王冠をいただかせると共に、
あなたを十字に架りつけるもの。


愛とは、あなたを育むと共に、刈り込むもの。
愛とは、あなたの高みに登り、
陽に震えるいと柔かなる枝を愛撫するごとく、
あなたの根元に降りて、地にしがみつこうとするその根を揺さぶるもの。

愛は、麦束のように、あなたと愛を一つにする。
愛は、あなたをむち打って、もみのように裸にする。
愛は、あなたをふるいにかけ、殻から抜け出させる。
愛は、あなたをこね回し、しなやかにする。

このようにして、愛は、あなたを聖なる火の上に置き、あなたは神の聖なる宴の、聖なる糧になる。

これらすべては、愛の業。
そしてあなたは自分の心情の秘奥を知り、
そこで知りえたことは、大いなる生命の一部となる。

(ぜひ、続きをお読みください。こちらのブログ ― このブログがまた素晴らしいのです。 ― に掲載されています。
http://poemculturetalk.poemculture.main.jp/?eid=56

『預言者』を書いたのは、彼が15歳の時だそう。(出版はずっと後のこと)
 レバノン生まれ(当時はオスマン帝国)のレバノン人ですが、キリスト教の家で生まれています。
 アメリカに渡ったり故郷に戻ったりを十代で繰り返しています。アラビア語と英語(の間で、どちらも習得に苦労した様子もあり、同時にイスラム教とキリスト教の狭間で自身の信仰のありかを見つける深く長いインナージャーニーを必要としただろうと推察しています。

 海外に暮らすと、二つの言語、二つの文化の間にいる感覚を誰でも持つのではないでしょうか。わたしはこの35年余り、ずっと両者に架かる橋で寝泊まりしている感覚で生きてきました。

 橋住まいです。
(霊的な自己と人間としての存在である自分との間の橋でもあります。)
(35年の間に、他国との関係、他言語との関係も強まってきているので、橋はいくつも現れ、どちらにしても、寝泊まりはいつも、橋で、というわけです。どっしりどこかに落ち着いて暮らす、という感覚はまったくありません。)

 ジブラーンは、ニューヨークに落ち着いた時、アラビア語の媒体がなかったので、アラブ系アメリカ住民のために、それから、祖国の人たちにアメリカの生の情報を送るために、それを始め、ジャーナリストとして仕事をスタートさせました。

 彼は、CRSの近くに住んでいたのです。
(CRSからほんの3ブロックほど離れた場所には、アナイス・ニンがいました。そこからさらに2ブロックほど西にいったところにジブラーンはいました・・・と、近所を強調すると、二人とも身近に感じられてわたしには嬉しいのですが、ジブラーンは1883年-1931年の人で、アナイス・ニンは彼が没した年にニューヨーク入りしていますから、お互いの面識はないことにないわけで、わたしにはそれが残念です。お互いに大切な友になったのではないかなと。)

 ジブラーンが師と仰いだウィリアム・ブレイクも、ジブラーンの誕生の直前にこの世を旅立っています。また、大きな影響を受けたニーチェも、彼の少年時代に没しています。ジブラーンのアイドルとも言えたターナーは、一時代前の人でした。ただ、グルジエフはジブラーンと同時期にしばらくニューヨークにいましたから、研究者によれば、「二人が直接会っていた可能性、ジブラーンがグルジエフから学んでいた可能性はじゅうぶんにある」ということです。

 わたしたちは、地球規模で、このように、人とすれ違ったり、出会ったりして、そしてまた、愛の力に翻弄され、打ちのめされしながら、聖なるものに帰還していくものなのでしょう。
 すれ違うも出会うも、恋に落ちるも恋が冷めるも、すべては愛の采配の内にあるドラマです。

 オープニングのトークには、この作品展のキュレーターの一人でもあるFSA (Foundation for Spirituality and the Arts)のディレクター(アフガン人女性)も参加していました。彼女は、人種的性的マイノリティで苦労するアーティストの現状打破について、それから表現者としてのスピリチュアルな歩みについて語りました。
(今日はたまたま、7月7日で、CRSは19周年を迎えるのですが、オープン当初は、表現とスピリチュアリティの関係はまだ一部の人にしか認識されていませんでした。スピリチュアリティと宗教の境が曖昧だっだとも言えます。「このセンターはスピリチュアルな名前があるからパフォーマンスは(恥ずかしくて)できない」とプロフェッショナルなパフォーマーたちに言われたことが何度かありました。そう言った人たちが、喜んでステージに立ち、瞑想会などにも積極的に参加するようになったのは、過去10年ほどの間でしょうか。)

 ジブラーンは、早生です。生前はアルコールの摂取量が半端じゃなかったと聞きます。彼はおそらく、わたしなどよりずっと長い橋の真ん中に、一人佇む年月が続いたでしょうから、その中で聖なるものにふれ、同時に、人間的な苦しみにもがいてもいたことでしょう。その狭間で、探究者、”預言者”として、心の叫びを表現することを一時もやめなかった、壮絶な優しさと情熱の迸りを、彼の膨大な量の作品に感じます。

 彼はニューヨークで没しましたが、終の住処にしようと準備していた故郷レバノンの”聖なる谷”にある博物館を、いつか訪れたいと思っています。

(写真は展示作品のひとつ。レバノンの Gibran Khalil Gibran Museum 所蔵)



 


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