何のための「GIGAスクール構想」か・・・

GIGAスクール構想に関して、最大の課題は「突然大量の端末をあてがわれて当惑している教育委員会・学校・教員側にある」という 豊福 晋平 さんの記事。

「GIGAスクール構想」で学校教育の現場はどうなるのか

ホント、そうだろうな・・・と思う。

これまで、さまざまな電子機器が教室に配備されてきても、あまり活用されず、無用の長物と化していった過去があることは、経験年数の長い教員なら頷ける話。

もちろん、その実態を教育委員会や学校管理職が知らないハズはない。

にもかかわらず、教員が授業のすべてを支配しながらコントロールすることが「指導」だと教えられ、ICT機器の使用に対しても同様のことが求められてきた。

ここがボタンの掛け違い(だと、私は考える)

そもそも、パソコンやタブレットは教科書や問題集、教材教具(この表現は大嫌い)と同列に扱われるものではない。そんな使い方しかしないのなら、お金をかけて一斉に整備し、持たせるなんてバカげたことは止めたほうがいい。

パソコンやタブレットは、限定的な使い方をするためにつくられてはいない。インターネットにつながることで、無限の可能性を秘めた「魔法の道具」として、子どもたちの好奇心を刺激し、創造性を喚起し、使い方を自分で考える=自由な使い方をしてこそ意味がある機器だ。

世の中は、そのスキルを求めている。だから学校で育てよう・・・ということではなかったのか。使えて当たり前になったいま、小学生だから、中学生だからと、年齢や経験で「できる・できない」を判断している場合ではない。

管理・制御しようとすればするほど、魔法は影を潜め、子どもたちの自由度=興味関心は薄れ、教員の負担は半端なく増大する。それがわかっていながら、その「無理」を押し通そうとする学校って何なのだろう。そんなことで創造性が育とうはずもない。

数年もすれば、がらりとスペックが変わるパソコンやタブレットを、後生大事にしまい込むかの如く、「先生の管理下で、限的に使わせよう」なんて発想は、教員以上に子どもたちにとって大迷惑。

それより、子どもたちの「ふだん使いのリテラシー」を高め、ある程度自由に使わせることの方が、断然いいし現実的だ。

教育委員会や学校現場が、どんな使い方をするか。一律に行き渡らせようとした構想ではあるが、導入段階から既に差ができているなか、今後、使い方の違いによって、公立学校でさえ大きな格差が生まれていく。

一律、一斉・・・といった思考や対処が「平等」だというのなら、その運用や効果まで「現実に即して」設計し、現場感覚で具体化していくことが最低条件ではないだろうか。

いまからでも遅くない、「現場から変えて」いこう!

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