人生を考えてみた②
人生は、一本のレールを、一方向に、前へ上へと進んでいくようなイメージがあるけど、実際は決して「一本」や「一方向」ではない。
縦横無尽に続く道路を、いや大空や大海のように通る道さえ定まっていないところをタテ、ヨコ、ウエ、シタ、ナナメに進んでいくような感じ。
だから、レールを外れることなんて、そもそもあり得ない。
時に立ち止まったり、また駆け足になったり。
這いつくばることやジャンプすることだってある。
もしかしたら、逆立ちしたり、後ろ歩きしたりしているかもしれない。
なので、どちらが前か、上かもわからない。
無限に広がる可能性に飛び込んでこそ、その軌跡が刻まれ、経験として自分のものになる。
人生って、その繰り返し。
にもかかわらず「教育」という範疇で語られる現実は、それを無視したかのような枠組みであり、強制的に用意された「大人になる」ための準備、環境だ。
幼→小→中→高→大なんていう、年齢に応じて一年ごとに進まなければならない学校制度。そのレールが「一本」しかないかのような価値観を与えられ、途中で分岐したり、ひと休みしようものなら、「それっておかしくない?」「常識から外れてるよね」「どうしてみんなと一緒にできないの?」と諭される。
順序よく、前へ進んでいくことが「良くできる子」の姿であり、周囲から認められる優等生。身体も心も、その成長は千差万別、待っている特性がひとり一人違うにもかかわらず、みんな一緒を求められ、それに合わないと「不適応」というレッテルを貼られる。
そう、それは教育(学校教育)という「大人になる(=社会に出る)までの訓練」であり、画一化された価値観に染め上げる作用以外の何物でもない。
おかしくない?
いつから、失敗すること、間違うことが「悪いこと」かのように言われるようになったのだろう。
失敗するから、間違うからこそ、新たな考え方や方向が見えてくるのだ。それを歓迎しないで、何の進歩があるというのか。
学校教育が「効率的・画一的」な価値観を育む場である限り、私たちは人生が「一本のレールを前へ進むべき」だという呪縛から逃れられない。
多様性とは、考え方や生き方も含めた、ひとり一人の人生そのものの違いを認めること。それは、決して画一化されたものではない。
自分の、自分と共に在る人たちと紡ぐ人生。
そこに「同じ」はあり得ない。