俳優の心身に負荷をかけなければ演出できない演出家は能力不足か?(1)

誰の得にもならないかも知れない(ばかりか僕が批判されるだけ)かも知れないけど、「俳優の心身を追い詰めなければ結果が出せない演出家は演出家として能力不足(大意)」というツイートを散見して、少しばかり思うところとがある。
じっさいにそれを今、自分が採用するかどうか、過去にしたことがあったかどうかはさておき、歴史的な事実としてそのような手法で俳優を育てるのが“あり”で、しかも相当程度結果を出していた事実を、少なくとも演劇史を眺めたときにどう評価し記述するかは考えるべき重要なことなんじゃないかと思う。
さもないと偉大な俳優、化け物のような俳優(僕が想定しているのは60~70年代の演劇シーンなので当然その中にはまだご存命で現役で活躍されている俳優がたくさんいる)が、いったいどのように生まれたのか。その歴史的文脈を捨象してしまわないか。そんなことで、俳優/演技論は語り継げるのか? と。
言い方を変えれば、今はもうぜんぜん流行らなくなった、ばかりかハラスメントの温床として社会的に非難されるような、同志集団としての“劇団”という社会的産物(ときにそれは反社会的であることが売りだったかもしれない)の存在、歴史を無視するか、無かったことにしてしまわないか? と危惧する。
国内の劇団の名前を出すのは無駄に炎上する気配しかしないので海外に視野を転じると、やや乱暴な思い付きの羅列になるかも知れないが、僕がそのような同志集団的な劇団というときには、僕は例えばクリコット2や、リヴィング・シアターなどを念頭に置いている。
しいて国内で、あくまで歴史的な劇団として挙げるならば天井桟敷や状況劇場、早稲田小劇場、黒テントか。もちろん時代が変わったといえばそれまでなのだが、あの時代の俳優訓練や、演出の方法、俳優と演出家の関係性をどのように評価するのか。
そのような歴史的文脈を考慮に入れずに、それを視野に入れずに「俳優の心身に負荷をかけることでしか演出出来ない演出家は演出としての能力がない」という論調には僕は、与することが出来ない。ひとつ前の段落で書いたようにそれは、俳優と演出家の関係性に依拠すると思うからだ。
そしてそれは、少なくとも60年代以降の高度経済成長期の/バブル期/ゼロ年代・テン年代の日本において、劇団とは社会において何ものであったのか? 如何な存在で在り得るのか? という問いとして、現代に真っ直ぐ繋がっている問題形だと、僕は思うのだ。
ハラスメントの問題と、1コの才能による(制度的)支配とはじっさい区別がつけ難い。
そんななかで、西尾佳織さんの鳥公園が取り組んでいる作家と演出家の分離、そして複数人の演出家を取り入れるという試みは非常に興味深い。
寡聞にして僕は西尾さんのところしか知らないのだけれど、若い劇団で(若くなくても良いか)中央集権的な劇団(集団)制度(それは演劇ユニット、などであってもその制度が緩いだけで基本的な構造は同じだと思う)からの脱却を試みているところがあったら教えて欲しい。

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