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【随想】「十分に孤独である」ということ。
先日、イキウメの舞台『関数ドミノ』を観た後、三宅陽一郎さんと話していたら、三宅さんが「孤独」について話をしてくれた。
それは演劇の内容にも関わっていたが、もう少し話を広げていてのことで、私が創造性と知性の関係について尋ねた時だった。
三宅さんからは、
・孤独であることは知性(知性が周りとの鎖を断ち切る)
・孤独だから他者に出会える
といった文で「孤独」という言葉が発せられた。
さらに言えば、三宅さんは私の本『「物語」の見つけ方 ー夢中になれる人生を描く思考法』を読んで、たちばなさんに会えた(人間性に触れることができた)といい、それはたちばなさんが「十分に孤独だった」からだと言葉にした。
私はその言葉を聞いてジーンとしてしまった。
それは本を執筆しているときの苦労が報われたからでもあるだろうが、そういう意味だけではなく、何か自分の中で遠くと遠くにあったものがすっと繋がったことへの感動だった気がする。
「孤独」という言葉の意味がガラリと変わり、そこに大切な響きを感じることができたのだ。
私は「創造性」をテーマにストーリーを探求しているが、「創造性とは孤独が条件の一つ」と言えるのではないかとすら思った。
それは私の言葉でいう「内的CQ(心の中で本当に求めていること)」に繋がる意味合いなのだが、内的CQの話をするとき、どこかポジティブな言葉でまとめようとする人が多く、それに対する違和感への答えにも近い。
必ずしもトラウマ的なものに向き合うことばかりを指して言いたいわけではないが、ポジティブなものとは限らない、もう少し光の届かない「深い湖の底」にあるようなものだという気がしている。
そのイメージに「十分に孤独である」という言葉が付合したのだ。
孤独というのは、ひとりぼっちで寂しいというニュアンスではなく、それは時に不安定だけれど、自分の意識や行動や現実が、きちんと自分と向き合えている結果なのだと思う。
だから、そこに「その人の存在」が浮かび上がるのだ。
私がクリエイターや俳優に対して抱くリスペクトも、色々な種類があるが、思い返すと「孤独」のようなものが常に隣り合わせに感じられていたと思える。
一匹狼であるとか、他人と交わらないということではなく、まずは自分で「十分に孤独である」ことが、その人にしか成し得ない創造性に繋がるのではないか。
個人的には「十分に」という言葉がとてもお気に入りで、それがつくことで、ある種の落ち着きや穏やかさ、やがてくる瞬間への準備や期待が感じられる。
三宅さんは、AI研究のトップランナーなので、十分すぎるほどに孤独なのだろう。その孤独の深さは想像もつかない。
ただ、その深みは美しく、尊い。
私も、十分に孤独でありたいと思う。
そのための知性を身につけ、創造的な人生を送りたい。