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卒論を書いた竹富島を24年ぶりに訪れた。

卒論を書いた沖縄の竹富島を24年ぶりに訪れた。

■竹富島との出会い

初めて竹富島を訪れたのは、1998年の夏だ。

当時、私は理学部地学科の学生で、それは旅行好きという安易な理由で選んだ学科だった。(ちなみに現在ははもうない学科で、地球惑星物理学科になっている)

地学科の中に自然地理と人文地理があって、私は人文地理(人間の暮らしや文化を学ぶ)が専攻だったが、竹富島を訪れるきっかけになったのは、自然地理の方で募集されていた夏休みのバイトだった。

サンゴ礁の調査をしている教授がいて、夏休みの間、石垣島で水質調査のバイトが募集されていたのだ。

調査といっても、1日船に乗って、定期的に水を汲んだり、温度を計ったりという単純作業。泊まっていたのもホテルとかではなく、研究室で借りた空き家だったが、先輩たちとの共同生活が楽しかったのを覚えている。

そのバイトを選んだ理由の一つが、帰りの飛行機は自由にずらすことができたことだ。バイト期間が終わったら、そのバイト代で石垣島から離島に旅行した。その時、初めて竹富島を訪れたのである。

私は竹富島がすごく好きだった。サンゴの調査はその年と翌年の2年連続で行き、1年は離島を色々回ったが、2年目はほぼ竹富に絞って3週間くらい滞在した。

その時点で、竹富島で卒論を書くことを決めていた。正直学問として研究したいというよりは、竹富島に行く口実を作っただけなのは間違いがない。

私は、理学部時代、わんぱく過ぎて1年多く通うことになり、地学も3年間通ったのだが、こうして1998年~2000年の3年間、述べ数十日は竹富島に滞在した。

■竹富島の魅力

竹富島といえば、白砂の道、石垣、そして赤瓦の家屋など、古き良き沖縄のまちなみが保存されていることで有名だ。

HISのページより

そういった建物を含めた島の佇まいのようなものが一目見た時から素晴らしいと思った。沖縄には素晴らしい離島がたくさんあるが、例えば西表島と宮古島とかより竹富島に惹かれたのは、自然だけではない魅力に惹かれたのだろう。高校生のときは建築学科志望だったし、旅行でも遺跡を訪れるのが好きだったので、そこは繋がっている気がする。

島には当時から今に至るまで、コンビニもなければ、交番もない。そういう離島の暮らしというのは、当時の自分に魅力を感じさせた。島に流れる時間は東京とは違って、何か大切なものを教えてくれそうな気がしたのだ。

田舎の不便さみたいなものに価値を感じるのは、住民の人からしたら迷惑だろうとも思うが、そういったアンバランスさみたいなものが、卒論のテーマにもなっていく。

■卒論のテーマ

竹富島は、全体が西表石垣国立公園の一部であり、その景観が「伝統的建造物群保存地区」にも指定されている。

歴史的な町並みが観光地になることは多い。しかし、住民生活の快適さとの両立は難しく、軋轢も起こりやすい。特に竹富島の場合は、集落全体を観光客が歩くので、観光とは関係ない住民からすると余計なストレスを我慢しなければいけない。

全国的にも評価の高い竹富島の町並み保存運動が、なぜうまくいったのか、課題はないのか?そういったことが卒論のテーマだった。

もう少し具体的にいうと、昔ながらの暮らしのスタイルをキープすることに肯定的な立場とそうでない立場がある。私は以下のような5つの立場を設定し、それぞれのベネフィットを整理した。

①観光で生計を立てている住民
②観光で生計を立てていない住民
③観光客
④行政
⑤学者

昔ながらの景観を保つというのは、不便な暮らしをキープするということにもなり、①観光で生計を立てている住民であれば許容できるものの、②観光で生計を立てていない住民にとっては話が違う。

③観光客は非日常さを求め、多少不便な白砂のでこぼこした道にも味を感じるが、②の住民というのは、ほとんどが年金暮らしの高齢者なので、道一つとっても舗装された方が嬉しいという気持ちがある。

④行政の立場もケースバイケースで、観光産業は重要だが、生活の利便性だけでなく補助金目当てで公共事業で道を作りたいなどバランスが問われる。町会議員などには建設会社の経営者がつくのもよくあること。かつては石垣島から橋を通すという計画が立ち上がったこともあった。

⑤学者は学者で、別の角度から景観価値を保存するべきだといい、それが住民の生活とは相反してしまうこともある。

こんな調子で、それぞれの思惑があり、一つの視点だけでのこうあるべきだという理想論は通らない。複雑に絡み合った思惑の結果として町並みや暮らしの姿が変化していくのだ。

卒論を書くにあたっては、そんな現実的”動的平衡”を見極めたいと、色々な人に話を聞いた。そうすると狭い島社会ならではの人間関係の”歪み”も見えてくるが、どうすればいいか一緒に考えたいという思いがあった。

特に2年目に訪れた時には、1年目に知り合った人のつてで、民家に安く泊まらせてもらったり、レンタルサイクルをやっていたおばあちゃんと仲良くなって手伝ったりと島のリアルな生活にも多少触れることができていたのもある。

ちなみにレンタルサイクルのバイトはお金のためにやっていたのではなくて、フィールドワークの一環で、どんな観光客が来るのかを知りたくて、おばあちゃんと話していたら、もう体力的にしんどいというので、ちょっとだけなら店番するよと言ったのがきっかけだった。

お年寄り孝行のつもりで、お金目当てではなかったが、おばあちゃんも若者が手伝ってくれて嬉しかったのか、お昼の弁当を作ってきてくれて、あとはお小遣い代わりに1日1000円をもらい、1週間くらい手伝った記憶がある。

そんな滞在期間を過ごしながら、竹富島のこれまでを学び、自分なりに島の未来を考えた。しかし、観光半分のよそ者の私が考えられることなど知れている。最終的には、「微妙なバランスの上に現状の町並みが成り立っており、住民の誇りのようなものが防波堤にならざるをえない」というような曖昧な結論しか書けなかった。

損得に合わないことは、結局、人間関係次第ということになる。卒論のタイトルも「誇りの価値」というサブタイトルをつけた。

ちなみに、書き上げた論文を読んだ教授は「ルポタージュとしては面白いね」という感想だった。およそ理系の論文とは思えない内容だったが、ギリギリ単位もらえて本当によかった。

今から思うと、当時は物語を作る仕事につきたいなどと全く思っていない。しかし、島のリアルなストーリーを追いかけていたのだから、一つのルーツと言えるかもしれない。

■そして24年ぶりに訪れた竹富島

そんな竹富島だが、気づけば20年以上も訪れていなかった。

旅行好きではあるものの、お気に入りの場所に何度も行くよりは、まだ行ってない場所を優先するタイプ。沖縄に行くくらいなら海外に行きたい、みたいな気持ちもあった。

それが今回、仕事で那覇に行かせてもらったので、そのついでと足を伸ばしたのである。本当にありがたい機会だった。

20年ぶりに訪れて感じた変化は下記。

①港が立派になっていた
②宿やお店が増えた
③西桟橋が立派になっていた

いずれも観光地として成長しているということだろう。私が当時話を聞いた人は、ほとんどが亡くなっているはずで、再会のようなものは無かったが、そんな中、今回初めて会って話をできた人がいる。それが石垣久雄さんだ。

あれは「なごみの塔」と呼ばれる塔に登った時のこと。

なごみの塔

そこは観光名所の一つで、久しぶりに登って上からの景観を眺めていたら、すぐ裏の民家から、大音量で民謡が聞こえてくるではないか。

吸い込まれるように近づいてみると、Googleマップにも「軒下のゆんたく休み所」と表示されていて、入口にも「どうぞ気軽に寄ってください」的なことが書いてある。

中に入ると、ご老人が軒先で何やら文献ぽい本を読んでいて、私の姿を確認すると笑顔で手招きしてくれた。聞けば、この竹富島出身で、琉球大学を出て、県立八重山高校の校長まで勤め上げたすごい人だった。

石垣久雄さんと

私が通った時期は島には住んでらっしゃらなかったそうだが、定年して竹富島に戻ってきたとのことで、この島の行く末を案じ、色々と活動されている素晴らしい方だった。

石垣さん曰く、竹富では高齢化は進み、やはり空き家は増えているそう。島での仕事には限界があるため、当然若い世代は島を出ていく。実際、島には中学までしかないので、高校からは島の外に通う他ない。

やはり住民の方に話を聞くと、観光しているだけでは分からない一面が見えてくる。卒論を書いている時に感じた課題はやはり今も根本的には変わらないようだった。

■西桟橋からの夕日

私にとって、竹富島を象徴するものといえば、西桟橋から見る夕日だ。島に滞在していた時は、夕暮れ時は大抵ここで過ごした。
昨年の海外旅行でも、「太陽のありがたさ」を感じていたが、夕日好きの原点はここかもしれない。

日によって雲に隠れてしまってキレイな夕日が見えないこともあるが、ダメならダメと寝転がって暮れていく空を眺めているだけでも気持ちよかった。

当時、夕日を見ながら何を考えていたのかと思い返すが、全く思い出せない。大したことを考えてないのだけは間違いなさそうだが、今から思うとなんと贅沢な時間だろう。

当時は当時で、目標や悩みもあっただろうが、それでも今よりは圧倒的に無自覚に生きていた気がする。自分の中に流れる時間は今よりぼんやりと遅く、まさに”モラトリアム”と呼べるような時間だった。

そういえば数日前、那覇で一緒だった三宅陽一郎さんが「遅延は知性の証」という話をしてくれて、そのことも思い出した。

遅延と迂回と多層による人工知能における意識構築(三宅陽一郎)
https://www.slideshare.net/slideshow/ss-81332975/81332975

当時、遅延しまくっていた自分だが、貴重な時間であったことは間違いない。西桟橋から見る夕日というのはその象徴のようなものであった。

今回の滞在は2泊だったが、連日、西桟橋で夕日を鑑賞した。1日目も曇り予報ながら悪くない夕日だった。しかし2日目は1日に晴れていて素晴らしい夕日が拝めた。

竹富島の夕日を見ながら久しぶりに聴きたいと思っていた曲もあった。
それは坂本龍一の『ちんさぐの花』だ。

この曲は1989年に発表された曲で、当時にも同じ場所で何度も聞いていた。
本当に好きな曲なので、最近では敢えてたまにしか聞かないのだが、今回も特別な時間を演出してくれた。

この曲は本当に素晴らしくて、『てぃんさぐぬ花』という沖縄民謡をベースに、坂本龍一さんらしい壮大な音楽が奏でられる。

僕にとって「デジタルとアナログの境界線」というのは、人生におけるテーマの一つだが、それを象徴するような音楽と言ってもいい。それは過去と未来が交錯するような空間(旋律)でもあり、時間を超えて世界と繋がるようなひとときだった。

■『星のや 竹富島』

楽しみにしていた『星のや 竹富島』にも泊まることができた。

星のやは、24年前にはなかったものの代表だ。『星のや 竹富島』の存在は、島の開発にとっても大きい。

以下の記事にも書いてあるが、外部に売り渡された土地を取り戻す過程で、エンジェル的に名乗りをあげてくれたのが星野リゾートで、どこぞの無礼なホテルが立つよりは、竹富島の暮らしを尊重するといってくれた星野リゾートは救世主的な存在だったのだと。

実際、島の中でも色々な意見はあっただろう。ただこの『星のや 竹富島』が、竹富島のブランド価値を上げたのは間違いない。

実際、『星のや 竹富島』の中を歩いていると、集落を歩いているのと変わらない感覚を感じる。よくぞというほど再現されており、また極上な時間を過ごすことができた。

■まとめ

竹富島に最後に訪れたのは24年前の2000年。

私は現在48歳なので、24年前というと、ちょうどここまでの人生の半分だ。ちょうどあれから倍の時間を生きた節目の時に再び訪れることができて、これ以上なく感慨深かった。

24年前の写真

まだ大学生だった当時の自分と今の自分。竹富島も含めて変わったところと変わらないところ。それぞれ両方ある。

絶対的に見れば当然の変化も、相対的に見ればささやかな揺らぎに過ぎない。記憶の海に浮かぶ穏やかな原風景。カッコつけた言い方をすれば、竹富島は私にとっての「アナザースカイ」だ。

またいつか訪れる時を楽しみに、私の小旅行は幕を閉じた。



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