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士業経営の落とし穴【みんなハマる】 第3話 経営は血生臭い①

士業は、経営に向いていません、それは経営が血生臭いからです。

士業には、概ね、才徳(知性と人徳)あわせもつ、つまり利口な人が多いと思います。そういう人は「他人の気持ち」があまりわかりません。他人というのは自分とは大きく違う世界観(バイアスの角度がかなり違うイメージでしょうか)の人たちのことです。今の世の中、とくにゆとり教育時代もあって、偏差値で纏められて名門校に通ったりしているととくに強い。

で、経営をするということの超簡単な定義は、正しいことをうまく人を使ってやるということ、つまり組織での戦略行動です。
他人の気持ちに配慮しすぎても、しなさすぎてもダメ。
「中庸(いってみれば他者との誤解=対立概念をメタ認知して両立させる道をすすむこと)」が必要なんですが一見これが超低生産性アクティビティです。
士業のような自分の努力で高速で知識と技術と経験を磨き、独占業務として国民の福祉に貢献する高度な専門職は自己執行力が高いので面倒な「人を使うこと」に耐えられない。

抽象的な国民は好きでも、具体的な人が好きじゃないから、勢い、人を使うようになっても意味ある纏まりは作れないような感じがします。

経営のためには血生臭いことが起きます。
つまり、人の集まりを組織にすることは、全員が平等な役割にはなりません。人が人を切る、排斥する必要も出てきます。能力や経験の違いもあり、全体へのリスクも考えればそうなります。
そこで「人が働くこと(WORKING)」の政治(権力)的な闘争的、競争的な側面がクローズアップされてきます。

一万年以上前から、人の集団は、バンド(少数血縁集団、トライブ(部族社会)、チーフダム(首長社会) ステート(国家)など構成員を大きくする方向で進化し、それは集権化の歴史であるとされています(「銃・病原菌・鉄」)。
士業は自分が人に指図されるのがきらいなので自分もあまり人に指図されたくない、さらに自分の部下にまた別の人を指図させる権限を与えたくないというマインドがあるような気がします。
いわば集権化への潜在的な抵抗があるのかもしれません。
集権化はまさに身近に血生臭さを生むことになるからです。崇高な理念、高い目標といっても虚構であり、絆で結ばれた家族同然の仲間(部下)を、そのために苦難に立ち向かわせること、部下がまたその部下を苦しめること、場合によっては切り捨てることに躊躇する感じです。

組織を動かすことに潜む血生臭さを感じるので避けてしまうのだと思います。

②へ続く

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