見出し画像

連載:メタル史 1984年⑤Metallica / Ride the Lightning

1983年、鮮烈なるデビューを果たしたMetallicaのセカンドアルバム。前作との大きな違いはベースのクリフバートンの存在感が増したことです。前作はデビューアルバムということもあり、「デビュー前からMetallicaが持っていた曲」が主に収められた。そのため、脱退したデイヴムステインの曲も多く収められているし、途中参加したクリフバートンやカークハメットの作曲面での参加は限定的でした。クリフバートンは1曲、ベースソロともいえる「(Anesthesia) – Pulling Teeth」を前作に収録して1曲だけながら強烈な存在感を出していましたが、本作ではアルバム全体に作曲時点から参加することになったわけです。前作に比べるとクリフバートンの色がしっかり加えられたアルバム、とも言えるでしょう。全8曲中、6曲の作曲にバートンは関与。

1984年のバートン(左)とヘットフィールド(右)

基本的に、Metallicaはジェイムスヘッドフィールドとラーズウルリッヒが中心のバンドです。ドラムとリズムギター(リフ)、そしてボーカルが曲の骨子を作っている。元メンバーのデイブムステインはリフメイカーでありジェイムスヘッドフィールドと似たタイプのソングライターでした。だから、ムステイン在籍時は彼が作曲に関与した曲も多い。本作にもムステイン在籍時に元型が作られた曲が2曲収められています。ただ、ムステインの後任として入ったカークハメットはリフ主体というよりはもっとリードギタリスト寄り、かっちりしたリズムを刻み続けるよりは独特のリズム感を持ち、ソロで曲の風景を変えるタイプのギタリストです。なので、Metallicaの作曲の骨子にはあまりかかわらず、出来上がった骨子に色付け、彩りを加える方が得意なギタリスト。本作ではハメットも4曲の作曲に参加しており、ヘッドフィールドーウルリッヒの二人のメインソングライターチームだけでなくバンド4人がそれぞれのアイデアを持ち寄って作り上げたアルバムと言えるでしょう。そのため、前作から飛躍的な音楽的深化を遂げます。

1984年のメタリカ

Thrash Metalという言葉が出始めたのもこのアルバムの少し前。UKのKerrang!誌が初出とされ、「荒々しい、鞭打つような」という意味のThrash Metalなる単語がMetallicaと共に認知されつつありました。ただ、Metallica自身は自分たちにレッテルが張られることを嫌っていた。1984年当時のラーズウルリッヒのインタビューだと「Thrash Metalだと(荒々しくて)演奏が下手なイメージがするだろ、音楽的深みもないし、他のバンドとひとくくりにされるのもおかしな話だ」と言っています。当時はまだThrash Metalのイメージが固まっていなかった。荒々しさ、速さ、勢いなど、想起されるイメージは確かに本作を表すのにふさわしくありません。前作はまさにThrash Metal的ではあったけれど楽曲の構成は複雑であったし、本作はさらにそれが深化しています。ただ、同時に荒々しさがあり、同時代的には激烈な表現であったことも事実。本作を持ってMetallicaは独自の音楽性をつかみ始め、「伝説のバンド」への第一歩を踏み出したと言ってもいいでしょう。Thrash Metal黎明期、Thrash Metalを代表するバンドでありながらすでにThrash Metalの先を進んでいた作品。

初めて「Thrash Metal」という単語が使われたとされるKerrang!62号(1984年2月23日号)
表紙はなぜかフィルコリンズ
Anthraxの「Metal Thrashing Mad」という曲に対して初めて「Thrash Metal」という単語を使った

本作は当初は前作と同じMegaForceレコードからのリリースでしたが、だんだんとバンドの人気が出てくるにつれてメジャーが興味を示し、リリース後にエレクトラと契約。エレクトラからリリースしなおされることになります。その過程で裁判なども置きますが、比較的早く決着がついた様子。Metallicaは順調に活動規模を拡大していきます。とはいえ、まだこのアルバムリリース当時はアンダーグラウンドな活躍で一般知名度は得ていません。ちょうど、時系列でMetallicaのアルバムセールスを可視化したグラフがありました。

これを見ると本作はリリース当初で早々に20万枚近くを販売、1985年、次作が出るころには50万枚近くのセールスを得ていたことがわかります。それにつられて前作も40万枚程度のセールスを記録。実のところこういう「バンドのアルバムセールス」ってさまざまな情報が錯綜していて正確なところはわからないのですが、この表はけっこう精緻に作られている印象です。いずれにせよ、だいたい50万枚ぐらいがリアルタイム(発売後1年間程度)で売れたと考えてよいでしょう。1984-1985当時はグラムメタルが大ヒットしはじめたいる時代でありますが、その中でも50万枚はなかなかなヒット作。ビルボードでは最高位100位とそこまで高い順位ではありませんでしたが、息が長く売れ続け、じわじわと浸透していった。ラジオやMTVからの爆発的ヒットではなく、メタルコミュニティの中で評価されていって広がったのでしょう。なお、時が流れた2020年時点では1100万枚以上を売り上げた、とされています。

1984年のヘットフィールド

前作リリース後、ジェイムスヘッドフィールドはギターとボーカル兼任であることに自信をなくし、一時期は専任ボーカルを加入させようか迷っていたそう。それで声をかけられたのが当時Armered Saintにいたジョン・ブッシュ(のちにAnthraxに加入)だったそう。ただ、当時はArmered Saintが好調だったジョンブッシュに断られ、結果として歌い続けたツアーを通じてボーカルとしての自信を持ちギターボーカルを続ける決意をします。まぁ、あれだけ複雑なリフを弾きながら歌うってかなりハードですよね。ジェイムスヘットフィールド以前にはハードロックやメタル界でギターボーカルってほとんどいなかった気がします(ベースボーカルはいた)。当連載で取り上げたバンドで言えばAngel WitchManilla RoadKISS(ポールスタンレー)ぐらいですね。いずれにせよけっこうレア。振り返ってみれば複雑なリフを弾きながら歌うというスタイルもある種の発明であり挑戦だった。

コペンハーゲンのスィートサイレンススタジオ

本作のプロデューサーはバンド自身に加え、Flemming Rasmussen(フレミング・ラスムッセン)とMark Whitaker(マーク・ウィテカー)。レコーディングはウルリッヒの故郷であるデンマーク、コペンハーゲンのスィートサイレンススタジオで行われ、ラスムッセンはそのスタジオのオーナー、Rainbowのアルバムも手掛けてきた名プロデューサーですね。この後、80年代はラスムッセンと組むことになります。ウィテカーはExodusの元マネージャーでカークハメットをメタリカに紹介した人。本作ではプロデューサーとしてもクレジットされています。なお、この録音の際、コペンハーゲンでの録音だったので地元のバンドであるMercyful Fateのスタジオで練習したりしていたそう。ここで両バンドの親交が深まったのでしょう。

わちゃわちゃしているメタリカとマーシフルフェイトのメンバー
左でメロイックサインをしているのが素顔のキングダイアモンド
隣がバートン、手前がウルリッヒ、ヘットフィールド、ハメットと思われる

※はじめて当連載に来ていただいた方は序文からどうぞ。

ここから先は

5,179字 / 1画像
長丁場になるので、購読いただくことが次の記事を書くモチベーションになります。気に入っていただけたら購読をよろしくお願いいたします。 最初は500円でスタートします。100枚紹介するごとに500円値上げし、100枚時点で1000円、200枚時点で1500円、300枚すべて紹介し終わった時点では2000円にする予定です。早く購読いただければ安い金額ですべての記事を読めます。

1980年から2009年までの30年間のメタル史を時系列で追っていきます。各年10枚のアルバムを選び、計300枚でメタル史を俯瞰することを…

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?