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革命の音楽:音楽で団結する人々

スキな3曲を熱く語る、という企画が行われています。

毎日聴いているお気に入りの音楽や、自分の人生を変えた曲、みんなに知ってほしい「今の推し曲」など、あなたの大好きな曲について熱く語ってください。

今回はこちらの企画に参加して、「人生を変えた曲」について書いてみようと思います。人生と言っても僕の人生ではなく、より多くの人の人生、歴史と呼ぶべきもの。音楽が歴史を変えた瞬間を3つ、書いてみようと思います。

はじめに:音楽の力

音楽には癒しや鼓舞など様々な力がありますが、その一つに「人々を団結させる」力があります。主義主張、メッセージを音楽という形にすることで多くの人が同時に参加することができる。ライブは”身体的な共時性”によって強い団結感をもたらします。

こうした「音楽の力」を活かした最初の例は古代ギリシャの演劇でしょう。古代ギリシャ社会において演劇は重要な役割を果たしており、人々が団結する、国家としての求心力を保つのに欠かせないものでした。演劇というか、「歌劇」ともで呼ぶべきもので、50人の合唱隊が役者と共に上がり、歌の形で物語が綴られていきます。紀元前500年ごろには1万人以上を収容できる劇場が整備され、音響面も反響などが計算され、音楽の力を活かす工夫がこらされていました。

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出典:古代ギリシアの演劇(wiki)

国家、いや、国家に限らずあまねく組織というのは団結が重要です。どんなに強大、強固に見える組織も、そこに所属する人、支持する人がいなければすぐに瓦解してしまう。巨大な領土、豪華な建物を保有していたとしても、それを誰も守らず、手入れもなければやがて瓦解します。人々が「国家の根幹たる主義主張」に触れ、共感することが大切で、そのために古代ギリシャでは歴史や価値観を歌劇の形で共有していました。

「国家の求心力」を保つための音楽で、次に特筆すべきは軍楽隊でしょう。1453年、オスマン帝国(トルコの前身)はビザンツ帝国(東ローマ帝国)を破り、コンスタンチノーブル(今のイスタンブール)を手中におさめます。東洋と西洋、キリスト教世界とイスラーム教世界を結ぶ結節点であるコンスタンチノーブルを支配下に置いたオスマン帝国によって、キリスト教世界にもイスラームの影響が伝播していきます。その一つに軍楽隊(メフテル)があります。古来から兵士の士気を高めるために音楽は使われていましたが、一つの完成系とも言えるのがこのメフテルで、ティンパニの原型ともいわれるキョスという打楽器(ドラム)が重視されました。鳴り響くドラムの音、力強いリズムによって兵士たちが挙動を合わせ、士気を高める。同時に、敵軍に対しては威圧感を与えて士気をくじく。

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出典:11.近代西アジアの音楽とヨーロッパ音楽との交渉:トルコを中心に

この時のメフテルの雷鳴のような打楽器音、鳴り響くトルコ風旋律はキリスト教世界に衝撃を与え、トルコ行進曲などのトルコ風の音階が取り入れられると同時に、オーケストラの巨大化、音響の巨大化へと繋がっていきます。

このように、音楽の”人々が団結する、人々を鼓舞する”という効用は、国家運営や軍隊など「多くの人が参加し、力を合わせる必要がある」場面において古代から重要な役割を果たしてきました。それでは、そうした「音楽の力」が歴史を動かした最近のエピソードを3つ、見ていきましょう。


1.歌う革命(1988、エストニア)

20世紀、バルト3国(エストニア・ラトビア・リトアニア)は長らくソ連の統治下にありました。1991年のソ連崩壊は歴史的出来事であり、多くの人々の記憶や資料に残っていますが、バルト3国も同時期に独立を果たしています。その裏側には「歌う革命」と呼ばれた独立運動がありました。

「歌う革命」とは、その名の通り歌によって支えられた独立運動です。もともとバルト3国はそれぞれ独自の言語、独自の音楽文化を持っていました。ところが、ソ連統治下においてはそれらは禁じられ、ロックやポップスといった大衆音楽も共産主義社会においては西欧資本主義社会の象徴として弾圧の対象となっていました※1。

1980年代中盤、ソ連の揺らぎ(ペレストロイカやグラスノチといった政治改革)によってソ連邦の国々には独立運動の気風が高まり、バルト3国もその影響を受けます。だんだんと大衆による独立デモが盛り上がり、巨大なうねりとなっていく中で、自発的に音楽が奏でられるようになります。デモ集会ではフリーコンサートが開かれ、プロテストソング、独立を促す歌が歌われる。そしてデモが盛り上がっていく。そうした動きを活動家・芸術家のヘインツ・ヴァルク (Heinz Valk)は「歌う革命(Singing Revolution)」と名付け、この運動は多くの人々を動かしていきます。

この運動が最高潮に達したのは1988年、タリン(エストニアの首都)で開催された「エストニアの歌声」です。30万人もの人々が集まり、エストニア古来の歌、エストニアの自主性と歴史を懐かしみ、称え、取り戻す歌を合唱しました。この集会には(当時はソ連統治下の政府にいた)エストニアの政治家も参加し、初めて独立に賛同する声明を発表しました。音楽による団結の力が、新しい国家の原動力となった瞬間です。

歌う革命は4年以上続き、連邦体制に対する抗議や挑戦が繰り返された。1991年、ついに赤軍の戦車が独立への動きを押し止めるために進駐した。ところが8月20日の夜遅く、エストニア最高ソビエトとエストニア立法府はソビエト法の無効と独立の回復を宣言した。翌朝、赤軍の一隊がタリンの放送塔を占拠しようと奇襲を仕掛けたが、民衆による人間の鎖に阻まれた 。こうしたソビエト強硬派の動きは程なくしてモスクワのボリス・エリツィン率いる民主派のデモによって封じ込められ、エストニア共和国の独立は流血を見ることなく達成された。出典:歌う革命(wiki)

1988年、「エストニアの歌声」の模様はYouTubeで見ることができます。


2.インドとパキスタンの対立を和らげようとしたロックバンド(1997)

インドとパキスタンは歴史的に対立関係にあります。もともとイギリス領インドの一部であった両国(のちにパキスタンから独立したバングラディシュも含む)ですが、独立時に2国に分割。大きく言えばヒンドゥー教のインド、イスラーム教のパキスタン、と分かれています。インドも多様な民族、多様な言語、多様な文化が混ざり合った巨大な国なので決して一枚岩ではありませんが、パキスタンとインドは国として分かれている分、対立が先鋭化。複数回にわたる印パ戦争に続き、1990年代には核開発を競い、1997年、1998年には両国が核実験を行い、緊張が高まっていました。

その中で活動をしていたのがパキスタン出身のロックバンド、Junoonです。彼らはパキスタン出身のバンドというそもそも珍しい存在です。なぜならパキスタンはイスラーム文化圏であり、基本的にキリスト教圏の音楽、ロックやポップスはあまり受け入れられません。キリスト教世界でもヘヴィメタルが「悪魔の音楽」とされ、1980年代にはPMRCによって「青少年に有害」として裁判※2を起こされたりしましたが、イスラーム世界ではそれよりもっと強い社会的弾圧、忌避感を持たれていました※3。

そんなイスラーム社会から生まれたロックバンドであるJunoonは、弾圧が強い自国を飛び出てより大きな活躍をすべく1998年にインドツアーを開催し、延べ10万人を動員します。パキスタン出身のバンドがインドツアーを行い、そして成功を収める。インドの若者の間で人気を得る。これは画期的なことでした。そして、インドツアーの最中にパキスタンの核開発について苦言を呈し、「こうした対立は間違っている」とメッセージを出します。それがもとでパキスタンからは入国禁止処分となり、国外追放される。ロックバンドが身を持って両国をつなぎ、政治を、国家を変えようとした瞬間です。

その後、パキスタンは政権が変わり、Junoonとも和解※4。Junoonはパキスタンに戻ることができるようになりました。一時期解散状態にありましたが、2018年にパキスタン最大の都市カラチで復活コンサートを行っています。その中からSAYONEE(友よ)※5をどうぞ。

ああ、友よ、親愛なる魂の友よ(O sayonee ... sayonee)
僕は心が休まる暇がない(Chain ek pal nahin)
一瞬たりとも平和がない(Chain ek pal nahin)
心に平和の訪れる瞬間がない(Chain ek pal nahin)
そしてそれに対してどうすればいいのかわからない(Aur koi hal nahin)
ああ、友よ、親愛なる魂の友よ(O sayonee ... sayonee)


3.アラブの春、エジプト革命(2011)

アラブの春は2010年、チュニジアで起こったジャスミン革命を契機として、アラブ諸国で起こった民主化へのうねりです。ジャスミン革命はチュニジアの一人の貧しい若者が自分に対するひどい仕打ちとそれを許容する政治体制への批判として焼身自殺し、それが多くの人を動かしてついに政権打倒に至った革命。チュニジアを代表する花であるジャスミンの花にたとえられます。

その流れがエジプトにも飛び火し、当時、長期政権を布いていたムバラク大統領政権への批判に繋がっていきます。エジプトの首都カイロにあるタハリール広場で若者たちによる政権批判が行われ、その活動が燎原の火のように広まっていく。その中でテーマソングとなったのがエジプトのバンドCairokee(カイロキー)によるSout el-Horeya(自由の声)です。タハリール広場で撮影された映像と共にYouTubeに投稿され、エジプト革命のテーマソングとなりました。

もう帰らないと言って俺は出てきた 全ての道に血で文字を書いた
聞こうとしないヤツにも話を聞かせ 邪魔するものはみんな崩れ去った
夢だけが俺たちの武器だった 目の前に明日は開けてる
ずっと前から待っていた なかなか見つからない俺たちの居場所
この国のすべての通りで 自由の声が叫んでる
空に向けて顔を上げた俺たちには 空腹なんてどうでもいいんだ
大事なのは俺たちの権利 俺たちの血で歴史を刻むんだ
お前も俺たちの一員なら もうつべこべ言わないでくれ
「夢なんてあきらめて帰ろう」なんて 自分勝手なこと言わないでくれ
この国のすべての通りで 自由の声が叫んでいる

出典:中町信孝『「アラブの春」と音楽』,DU BOOKS,2016,P189

アラブの春において音楽がどのような役割を果たしたかを歴史学者の中町信孝氏がまとめた本があります。より詳しく知りたい方はこちらをどうぞ。また、アラブの春で歌われた曲を集めたコンピレーションも貼っておきます。

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以上、音楽の力にまつわる3つのエピソード。バルト三国、アラブ圏、イスラーム圏など、政府の力が強く民衆が抑圧されている社会において、民衆の力の象徴として民主主義国家のロックやポップスといった音楽が機能し、それらのスタイルを用いてメッセージを伝える自国のアーティストが出てくる。そのアーティストたちの曲がうねりを作り、歴史を動かしていくさまを見てきました。人々を団結させ、鼓舞するという音楽の力は古代から変わらずに息づいています。

それでは良いミュージックライフを。

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※1 ロシアは、ソ連邦時代はほとんど英語圏のロックやポップスは入ってきませんでした。それを聴くには「Bone Record」と呼ばれる「レントゲン写真(ビニール)を原料とした海賊版ソノシート」だったり、アンダーグラウンドな流通で手に入れるしかなかった。80年代にもなるとイングウェイ・マルムスティーンやマイケル・ジャクソンがライブを行うようになり、少しづつロックやポップスが入っていきますが、これも「若者たちの変化への欲求」を高める→さらに資本主義文化が入ってくる→さらに変化を求める…という原動力の一つとなったようです。ソ連の音楽について取り上げた記事はこちら。

※2 「青少年に有害」ということでティッパー・ゴア(クリントン政権のアル・ゴア副大統領の妻)らによってつくられたPRMCによる一連の訴訟。1950年代のロックンロールの登場から「大人が眉を顰める音楽」であったロックですが、だんだんと市民権を得ていく中で、たまりにたまった保守層の不満と怒りが爆発した裁判とも言えます。USは実のところかなり強固なキリスト教国であり、それは他民族、多文化、多言語を抱える移民国家であるUSを団結させるものはキリスト教の教えと建国の精神だからでしょう。国家統治、成り立ちにおけるキリスト教の役割が大きく、キリスト教的倫理観、価値観の力が大きい。もちろん、キリスト教が「ロックはダメ」と書いていませんが(聖書の時代にロックはない)、プレスリーの腰フリダンスにおける性的なイメージに始まり(ワイゼツは罪)、ブラックサバス、レッドツェッペリンらの黒魔術的なイメージなど、むしろ意図的にロックミュージシャンはそうした保守層のタブーをからかうことで若者たちの支持を得てきた背景があります。そうした対立構造の噴出がこの裁判。ただ、結果としては「言論の自由」が勝つわけですが、こうした対立は今も根強く残っていて、「反社会的なロック」と同様に、CCM(コンテンポラリークリスチャンミュージック)と呼ばれるキリスト教を賛美する、保守的な価値観を称える歌も一定数存在しています。PRMC騒動についてはwikiをどうぞ。

※3 イスラーム世界での弾圧はキリスト教世界より強く、その中でも悪魔的な要素があるメタル、ブラックメタルなどは厳しい弾圧に。とはいえ不思議なのはそういう国だからこそ、なのか、反抗する音楽として激烈な音楽が生まれるんですよね。イスラーム圏のメタルバンドについて掘り下げた記事はこちら。

※4 Junoonやパキスタン音楽について、より詳しくはこちらの記事をどうぞ。

※5 偶然ですが、「友よ」というのは日本のプロテストシンガー(当時)であった岡林信康の曲名でもあり、学生運動のテーマソングでもありました。日本にも、歌で団結し、革命を起こそうとした若者たちの時代がありました。





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