見出し画像

連載:メタル史 1985年④Slayer / Hell Awaits 情報編

スラッシュ四天王の一角にして「帝王」ことSlayer。デビュー作「Show No Mercy(1983)」リリース後、EP「Haunting the Chapel(1984)」とライブ盤「Live Undead(1984)」を経ての2ndとなるのが本作です。前作についてはこちら。

1984年にリリースされたMetallicaの2nd「Ride The Lightning」がビルボードチャートを駆けあがることはないもののライブツアーとともにじわじわと売れ続け、メタラーたちの中にThrash Metal的なもの、より刺激的な新世代のヘヴィメタルサウンドに渇望があった中でリリースされたのが本作です。

なお、実は1stから2ndの間、1984年2月にギタリストのケリーキングが一時期だけMegadethに参加していたことがあります。当時のMegadethは結成されたばかりでレコードデビュー前(Megadethのデビュー作は1985年の6月リリース)。デイブムステインはキングに残ってほしいと思っていたようですが5回のライブの後脱退、これによりしばらくMegadethSlayerの間は不仲であったとされています。脱退理由は「自分の時間を奪われすぎる」とのこと。ただ、この時期、もう一人のギタリストであるジェフ・ハイネマンはほかのギタリストを探さなければならないのかと考えていたそう。結果としてキングはSlayerに戻ってきて本作がリリースされます。

1984年、ムステイン(左)と演奏するキング(右) 出典

Slayerは前作「Show No Mercy」がUSで2万枚程度売り上げ、US以外の地域でも2万枚、リリース後で合計4万枚のセールスがあったとされています(その後Slayerはどんどん知名度を上げていったので現在ではもっと売れているでしょう)。リリース元のMetal Blade史上それまでで最も売れたアルバムであり、期待もされていた。ただ、当時すでにMetallicaは20万枚程度の売り上げを立てており、新世代のUSメタルシーンの中では頭一つ抜けた存在に。それに比べるとSlayerはまだまだこれからのバンドだったので、その中心メンバーであったムステインの新バンド、Megadethにも(一時期キングが真剣に参加を考えるほど)デビュー前から期待が高まっていたのでしょう。

キングが復帰後、Slayerは1984年6月に3曲入りEP「Haunting the Chapel」をリリース。これは前作で見えた特異性をさらに推し進め、独自のスタイルを確立しつつあるものでした。具体的にはよりダークで速く、いわゆる今我々が想像するSlayer像に近いもの。1stではまだN.W.O.B.H.M.の影響を感じ垂れたものが、Slayerの独自色が強まっていきます。このEPの1曲目「Chemical Warfare」は彼らの代表曲の一つであり、ライブの定番曲となりました。

こうして聞くとこのEPは1stの延長線上にはあるものの明らかに極端さが増しており、「ザクザクしたリフ」「Slayerらしいダークさを感じさせる音階」「緊迫感」といった曲構造の確立に加え、トムアラヤのボーカリストとしてのスタイルも進化し、Slayerの独自性を確立しつつあることが伺えます。

このEPのリリースの後、初の全米ツアーに出発(それまでは基本、LA近郊、カリフォルニア州内が多かった)。その様子が「Live Undead」としてリリースされるわけですが、このツアーでさらにミュージシャンとして成長したのでしょう。1stリリースの前はトムアラヤは自分の仕事を続けるか、バンドに専念するか迷っていた状態。EPを作り、全国ツアーもしていく中でアラヤだけでなくメンバー全員「ミュージシャンとしての実感」が増していったのだと思います。

Kerrangに載った1984年のSlayer、若いエネルギーがあります
なお、この写真はのちのSupremeとのコラボにも使われていましたね

なお、この時のツアーはアラヤが持っていたカマロ(自家用車)に自家用車にくっつけられるトレーラーをくっつけて移動が行われました。車種は違いますが下記のようなイメージ。

出典

これで広い全米を回ったわけですね。西海岸から東海岸へ、そしてまた西海岸へ。4人の若者が一台の車でツアーしたわけです。

基本的に、この頃のSlayerはずっとライブをしています。1984年は年間70本、1985年も年間60本のライブを行っており、ほぼ毎週どこかでライブをやっている(ツアー中は固まっていますが、それ以外にも近場のクラブやライブハウスにずっと出ています)。レコーディング期間も数か月スタジオにこもる、と行ったことはなく、ライブの合間に行っています。やや1985年2月はライブが少ない(月1本)なので、この時期に本作のレコーディングが行われたのでしょう。基本的にずっとライブ、練習、曲作り、といったルーティン。それはミュージシャンとして鍛えられるわけですね。過去のツアーマップはsetlist.fmで見ることができます。

だいたいこの頃のメタルミュージシャンはこれぐらいライブをしていますね。年間50‐100本ライブをやっている。ちなみにIron Maidenなんかは特に多く、1980年から1983年までの4年間、平均で年間150本ぐらいライブをやっています。単純にすごいな。よく体力が続きますね。これだけライブをやれば、デビューアルバムから2ndまでの間に飛躍的に成長するのもわかります。

本作がリリースされたのは1985年4月。前作がヒットしたことによりレコーディング予算がMetal Bladeから与えられ、自分たちで費用を負担し、ほぼ自分たちで作成した前作と異なり、「与えられた予算とプロフェッショナルなスタッフ」の元でアルバムが作られます。本作のプロデューサーは前作と同じくSlayerとレーベルオーナーのブライアン・スレイゲルですが、ミキシングエンジニア、レコーディングエンジニアが付き、前作よりもかなり良い環境、音質で録音されています。

本作が作成された後、リリース前の3月からSlayerは再びツアーに出発。VenomExodusとともに再び全米ツアーを行います。この時の模様は「Combat Tour: The Ultimate Revenge」としてリリースされています。前回は自家用車での移動でしたが本作はツアーバスに昇格。Venomがツアーバスを持っていたんですね。Venomはこの当時すでにスターであり、それに付随する若手バンドSlayerExodusという形。なお、泥酔したアラヤが「トイレはどこだ」と騒ぎ、クロノス(Venomのボーカリスト)が「ここだ」と自分の口を指して冗談を言ったら本当に小便をかけて、クロノスにぶん殴られて大喧嘩になったこともあったそう。アラヤはこのことについてかなり反省したようです。

Venomとのツアーチラシ

5月にはヨーロッパはベルギーでフェスティバル「Heavy Sound Festival」に出演(ヘッドライナーはUFO)。そのまま初のヨーロッパツアーを行います。帰国後は再び国内、カナダをツアー。単独公演だけでなくMegadethDestructionD.R.I.PossessedAgent SteelS.O.D.Nasty SavageMetal Churchといったバンドと回っていたようです。こうしたツアーでライブバンドとしての存在感をメタラーに植え付けて回った結果、本作はリリース時にチャートインこそしなかったものの(当時のMetal Bladeの配給力ではそれほどレコードをさまざまなところに置けなかったこともあるでしょう)、今まで世界中で累計100万枚以上が売れたとされています。Slayerがスラッシュメタルシーンを代表するバンドとして活躍していく始まりのアルバム。

1985年、仲直りした様子のMegaethとSlayer 出典
ただ、ハイネマンの顔はやや硬め

それでは良いミュージックライフを。

※はじめて当連載に来ていただいた方は序文からどうぞ。

ここから先は

0字
長丁場になるので、購読いただくことが次の記事を書くモチベーションになります。気に入っていただけたら購読をよろしくお願いいたします。 最初は500円でスタートします。100枚紹介するごとに500円値上げし、100枚時点で1000円、200枚時点で1500円、300枚すべて紹介し終わった時点では2000円にする予定です。早く購読いただければ安い金額ですべての記事を読めます。

1980年から2009年までの30年間のメタル史を時系列で追っていきます。各年10枚のアルバムを選び、計300枚でメタル史を俯瞰することを…

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?