学校から「体育」を除外してみたら①

 突然ですが、皆さんはスポーツは好きですか?「ずっと、スポーツをしています。」「観るのが好きです。」と、スポーツを実践している人から、観ることでスポーツに共感を得ている人、はたまた最近は「eスポーツ」という分野も誕生しています。様々なとらえ方ができることもあり、スポーツは好きと答える人が多いのではないでしょうか。

 では、体育は好きです(好きでした)か?と聞かれたらどうでしょう。「○○は得意だったけれど・・・。」「みんなと一緒にするのは・・・。」など、意外とネガティブな意見が出てくるような気がします。

 自分自身は、体育が好きでしたし、中学・高校は運動系の部活をしに通学していたと言われてもいいくらいでした。結果、中学・高校の保健体育の教員免許状も取得したくらいです。

 ただ、小学校教諭として十数年勤務していた中で、学校教育の教科の一つである「体育」が社会一般の「スポーツ」と結びついていないと、改めて実感しました。(体育=スポーツではないという考えが認知され始めたのも、ここ最近だと思いますが・・・。)また、スポーツ指導者(日本スポーツ協会公認資格も保有しています。)という視点で子ども達の環境を見たときも、体育がある意味弊害にもなっているのではないかとも感じていました。

 そこで、思い切って「体育」を学校で教科として扱わないとしたら、どうなるかと考えて、記事にしてみました。

1 体育の目標とスポーツの関係

 体育科や保健体育科の目標として、学習指導要領では以下のように書かれています。

 体育や保健の見方・考え方を働かせ、課題を見付け(発見し)、その(合理的な)解決に向けた学習過程を通して、心と体を一体として捉え、生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力の育成を目指す。(小学校学習指導要領解説「体育編」、中学校学習指導要領解説「保健体育編」より。一部抜粋)

 もちろん、学校体育が生涯スポーツの取り掛かりとなっていることは否定しません。ここで改めて考えたいのは、目標がある=評価をするということです。目標達成のために、教科書がつくられ、指導計画が立てられ、授業を通して実践し、どれだけ達成できたかを評価するという流れになります。ただ、評価の観点が、「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」となっているのですが、体育における評価がこれらの観点で評価しきれるのか?また、豊かなスポーツライフを実現するために体育の授業を受けるけれど、その時点の技能や思考、態度が評価されるわけです。当然、教員の主観も入ってくるわけで、体育を客観的に評価することの難しさが見えてくるはずです。このことが、スポーツが好き=体育が好きと結びつかない、一因ではないかと思うのです。

2 教育課程や標準授業時数から見る体育の位置づけ

 今の子ども達は、小学校1年生でもほぼ毎日5時間授業、小学校2年生から6時間授業が始まり、小学校4年生以上ではほぼ毎日6時間授業という日常生活を送っています。(長期休業を調整したり、土曜日も課業日にあてたりして、日々の負担を減らすところもありますが・・・。)

 その中で、体育(保健体育)の時間は、週2.6~3時間あります。これは、主要教科(国・社・数・理・中学校の外国語)の各教科の授業時間数に次いで多い時間数で、中学校3年生については国語と保健体育の授業時間数が同じになっています。

 それだけ、心身の健康を保持増進するのために重要視されているのだと思います。しかし、今の受験制度を見たときに、主要教科に重点を置く必要があることは理解できますし、子ども自身や保護者の捉え方も、国語・算数の方が心配と思う気持ちが出てくるのは自然なことだと思います。ましてや、このコロナ禍において、「いつから学校やるの?」「7時間授業になるんじゃない?」「夏休みはあるの?」「毎週土曜日、授業やるんじゃない?」という不安な気持ちが積み重なり、その中であれもこれもやらなくてはいけず、結果、子どもも大人も疲弊してしまうのではないかと危惧してしまうのです。

 この際、学校ごとに行っている行事や授業内容の精選ではなく、国の教育方針である学習指導要領や教育課程の取捨選択をして、評価することが難しい「体育」を学校教育から除外してはいいのではと思うのです。そうすることで、教育現場に余裕が生まれ、主体的・対話的で深い学びの実現も同時に目指していけるのではないでしょうか。

 もちろん、生涯スポーツの第一歩という側面を考えても、体を動かす機会を除外してしまうことがいいこととは思いません。次回は、その解決案について記事を書いてみようと思います。

 

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