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感情の消えた夜 - 境界線 Ⅷ
季節の所業
平日の深夜、一定のリズムで刻まれる ピッピッピッ といった感じのループ音と遠くの方で鳴る大型のブルドーザーのような機械音とバイクのエンジン音がうっすらなる中夢の世界から目を覚ます。まだまだ眠かったし時間も朝まであったからそのまま寝れたのだけどなんとなく体を起こして窓際に座ってみた。
大きめのワゴン車を運転して大勢の架空の友人と何処かの大きな芝生がある公園で何日もバーベキューをする夢を見ていた。現実世界での私は全く興味がないし、車には乗らないし、多くの友達と泊まりで何処かに行くような遊びはそんなに好まない。最近ではどちらかといえば小数人で静かに過ごすか一人で何日も過ごせたら楽かもしれないなんて思うくらい。
その時車で食べていたブルーベリーソースとクリームチーズの二、三回に分けなければ食べれない大きなクレープがすごく美味しいはずなのにこの上なく味気なかった事と、同乗した架空の友人がお笑い芸人で握力197kgもあるけど声が小さいという悩みをずっと聞いていた事は今でもはっきりと覚えている。
もうすっかり冷房がなくても寝付けるし、私が経理事務をしている会社への行きも帰りも湿度に苦しめられる事が減っていた。
日本には四季というものがあって年々多少の変化はあるものの何十年、いや何百年。もっとだろう。随分長い間一年おきに繰り返されてきている。
歴史は詳しくないけれど室町時代、安土桃山時代、江戸時代、明治、大正、昭和、平成。いくつもの年号を経て今に至るまでずっと。
人の頭と体はそんなに同じ事を繰り返し熱を帯び続けることができないというのに。
果たして私たちが今生きているこの時代はどんな風に呼ばれる様になるのだろうか。
歴史の物語はそんなに読まないけれどいささかこの時代は華に欠けている様にも思う。よくもわるくも平らというか。
ただ私は刺激とか賑やかなものは望まないし、過酷な労働には耐えられないと思うから時代が逆流しない事を切に祈っている。
以前はこんな事を頭の片隅でも考える余地はなかったし季節の変わり目から時代を連想するだとか、なんだか自分らしくない。
間違えなく彼と出逢った影響だと思う。
あの夏の終わりからもう何年経ったのかな。
夢と現実の狭間で頭がぼんやりする中、あまり昔の事を思い出さないのだけれど今日は振り返っていた。
彼の家には電話がなく携帯電話も持っていなかったのだけれど、特に約束をせずともいつものバーで合流出来たので特に困らなかったし、
どうしても伝えたい事があってすぐ連絡が取りたい時は彼が唯一持っていたパソコンのEメールへたまに用件を送っていた。そんな事は左手の指で数えきれえる程度しかなかったけれども。
思い返すと彼と私は全く異なる世界を生きていた住人で、たまたまあのマスターのお店で同じ時空間を一時的に共有していたような不思議な関係だったのかもしれない。
少し恥ずかしいような懐かしいような気がするけど、もうだいぶ昔の話だからいいかな。
あの頃、私は彼の事しか考えられない位熱を帯びていたと思う。
当然一人でバーへ行きマスターと奥さんの話を聞いたり、別の友達と遊びに行ったりもしていたけれど脳みその占有率は明確だった。
ある日私が夕飯を食べにバーへ足を運んだ時マスターがいつもと少し違った雰囲気で食器を洗っていた。
なんだか嬉しそうというか、なんとなく身なりも綺麗だったので、何かいいことでもありましたかと尋ねたところお子さんが出来たのだと少し照れながら答えた。
正確には覚えていないけど彼とマスターは同級生でそこそこ歳上だった気がする。
そしてこのお店は別の友人に任せて大きなホテルのシェフに戻ろうと思っているそうだった。
元々マスターは結構名の知れた場所でシェフをしていたのだ。
彼に伝えたのか聞いてみたところ「いやあいつはいつ来るかわからないし最近見てないからね。会ってない?紐の切れた凧みたいなのが取柄だしそのうちどっかで会ったら伝えるよ。」と言って一通り洗物をした後タバコに火をつけながら「わかってると思うけどさ、あいつは悪い奴じゃないし意外と大切なものは守る奴だけど、気分次第で生きているからずっと一緒に居たいなら苦労すると思うぜ。他人の人生なんか解りゃしないけどな。」そんな事を言った後また調理に戻った。多分深い意味があったわけでなく、惚気の照れ隠しだったと思う。
私がその頃思ってたより仕事に慣れはじめて忙しくなりつつあったのもあるけれど、彼と自然に会える時間は減っていた。でもその前よりも彼を求めてしまったり考える時間は遥かに増えて何をしていても脳裏をよぎっていた。
勿論お互いに家は知っていたし会おうと思えばいつでも会えたはずなのだけれど、不思議な距離感というか。どこか知り合ったばかりで付き合う前の様な。片想いで声をかけるのに戸惑っている時の様な、そんな感覚に近く少し距離を置いてしまっていた気もする。
ある日、優しく緩やかな夏を惜しむ様な風が流れる夕方。
仕事が早く終わりバーのある街で買物をして帰ろうと思い駅に寄った。
平日の夕方にも関わらず道は人に溢れていたのだけれど、知っている少し甘い香りがよぎって私は思わず振り返った。
長い髪を切り、無精髭もさっぱりと落としたスーツ姿の彼が歩いていたのだ。
何週間か会っていなかったし、似ているだけの別人かと思うくらい雰囲気が違うものだから思い違いかと一瞬思ったけれど、間違いなく彼である。
声をかけて良いものか。いや悪いわけがない。
息を呑み肩を叩いてみよう。そう思って後ろを少しついて行ってみたのだけれど、彼は背が高かったし人も多かったし全く追いつけなかった。誰に振り向く事もせずものすごい勢いで何処かへ消えていく背中に声をかける事ができないまま見失って私は人混みに紛れ一人になった。
転職でもしたのだろうか。忙しくなったのだろうか。わからない。わからないけれど私の知っている彼ではない事だけはわかってしまった気がしていた。いつも煙の様に気怠く漂っている様な彼ではなかったし、戦場をけか抜ける弾丸の様な、触れただけで怪我をしそうな刃物の様な。なにものも近付けない様な冷たさを感じた。
多分もう同じ道の上を同じ歩幅で歩く事はないんだろうな。
私はしばらくして真夜中に届くのか読まれるのかわからないEメールに「ずっとあなたを私だけの永遠にしたかった」そう綴りこのかすかに残った夏を終わりにしようと決めた。とても愛おしいし、たくさん話したい事もあったけれど。
それから幾度かマスターが移動するまでバーには顔を出したけれど、彼と会う事はなかったし彼の話が出る事もなかった。
思えば私の青春の終わりの様な、人生の始まりの様な。普段は忘れているけれど何かの節目にうっすら思い出す。
私は幸せに過ごしているし、今は大切な家族も居る。
戻りたいとは思わないけれど特別な記憶。
あの夜、剥き出しの熱くて持てない様な感情を失った代わりに、生温い素手で掴める様な心地よい感情と出逢い知る事が今はできている。
少し思い出したら熱くなったかな。
過ぎ去ったものへどんなに想いを馳せようと私の心は自由だけれど、今大切なものを蔑ろにするほどの事でもないし。
窓を開けて涼んだら新しい今日を迎えよる準備をしよう。そう思って空を見上げた。
澄み切った空 乾いた空気の香り
一筋の光が星々の間を通り抜け
日々の狭間にあるほんのひと時
季節の所業に揺さぶられ
薄れゆく意識が感情をすり抜けて落ちる
感情の消えた夜 - 境界線 完
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