「女はいつ勉強するんですか」
私の整体の先生は女性です。子育てをしながら野口整体を学ばれ長年整体指導をされています。お孫さんたちが整体生活三代目としてすくすく育っている最中です。「仕事もして子育てもして介護もして、いったい女はいつ勉強するんですか」というのは、生活でいろいろあって「勉強についていけない」と言ってしまった私への言葉です。ここで言われている勉強とは学校に行って学ぶことや誰かに教わることではありません。自分の世界を自分から広げていく勉強のことです。広い世界を知るとか愛すべき人間についての終わりのない勉強です。仕事、子育て、介護の中からでもいのちについての深い勉強はできるんだよ、という女性へのエールだと思っています。
さて、あなたは「女は」ってところにクエスチョンがつきませんでしたか?
女ってなに
整体では、女と男は体の構造がとても違うものとして捉えています。人間・ライオンの種の違いよりも、人間の女とライオンのメス、人間の男とライオンのオスの方が構造的にはよっぽど近いと見るわけです。面白いでしょ。
今は性の多様性という観点から、生物学的に「オス」「メス」にわけて語ることが、文脈によっては「自然なことなんだから受け入れろ」という圧力として捉えられ暴力性を帯びてしまいます。
しかし、整体でいう「性の力」というのは繁殖・繁栄の仕組みから自然と出てきてしまう力のことなのです。本来は生殖行為に直結しますが、人間はその力を愛することや守っていくこと、育てること、生活を営むこと、食べることや眠ることに使っているのです。「性の力というものを持って生まれてきたがさてその力をどう使っていこうか」という観点であれば、人それぞれの力の出し方があるのですから、どんな人でも個人個人でしっかりと生きていこうと感じられるのではないでしょうか。
そういう構造的違いの前提があって、の話です。
私は「女」ってなんだろうと思います。とても興味があります。
野口先生は「女である時期」という著書の中で「女の形をしていても女である時期は月経のある時期だけ」「月経のある時期が終わった女の人は女を卒業したとみる」というようなことを書かれています。ここだけ読むと「なにー?!」と思ってしまいませんか。でもこれは「生殖器が体の外にあるか中にあるかの構造的に見て、また、整体操法の観点から見て、同じような症状があったとしてもその原因を男と女を同じに考えることはできない。妊娠の可能性のある期間の人は生殖器に非常に左右された状態で敏感になっている。他の臓器も心も影響を受ける」という但し書きが入ります。すごく奥が深いものなのですが、こうやって一部だけを取り出すと、人によっては受け取り方を間違ってしまうので注意が必要です。注意が必要というか、そこからもっと深く勉強せい!ということですなのですけれどもね。
政治家が少子化や女性を語ると「女=生産性」みたいな表現をしてすぐニュースになりますし、もうちょっと前には「月経が終わった女が長く生きるのは無駄で罪」みたいなことを言った人がいました。表面的な役割談義で奥深さなんてあったものじゃない。聞かされた方はただの迷惑でしかないですが、これも人の性の力によるものです。実際は奥さんには頭が上がらない人かもしれないのに力を示したいがために外ではそういうことを言いたくなっちゃうという。人が何で動いてしまっているか感ずることができれば、こういう妄言にいちいち左右されることがありません。
女は最後まで女ですよ。体から見ていく上で男と同じには考えられない期間がある、ということです。よくわからないながらも女とその他の違いを感じ取っているからこそ世間ではいろんな表現となって現れてくるのでしょう。
男の野口先生は人間をみていました。老若男女を徹底的に。ですから、客観的に女を見て知見を残してくださったものを、次は女性自身が女の体を見直して、自分も周りももっと元気になっちゃえばいいんじゃない? と思うのです。
「(略)そういう意味で将来はもう一回、仕事という面から考えないで、女の体の保存という面から考えて職業の範囲が決まるような時代がくるだろうと思うのですが、そうなったときに初めて女権が尊重されたと考えてよいのです。女性の課長ができたとか、女性の代議士ができたとかいうと、女権の拡張のように思う人もありますが、体の面から観ると必ずしもそれは本当ではなく、女に合う仕事だけが残っていったということの方が本当ではないかと思います。」
———野口晴哉著『女である時期』より
これは昭和42年の講義です。私が生まれる前、もう52年も前の話です。そう、50年経った今もまだみんな必死になってトライ&エラーしている最中なのです。「女の体に合う仕事だけが残った」という状態になるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。もしくは積極的に仕事の仕方を体に合うように変えていくことが必要かもしれません。体に合わないことはどんなに無理したって合わないんだということは、無理や無茶をしないとわからないものです。無茶をして自分が壊れるだけなら失敗しちゃったねで済みますが、家族も次世代も壊れていくなら問題です。ではどうすればいいか。自分の体に聴いてみる、という感覚を取り戻すことが一つのヒントになるのだと思います。
お母さんであるということ
世の中には仕事も家事も完璧にこなす、みたいな女性像がありますね。理想の女性像に向かっていくことが周りとの差別化の競争になっていて、それが動力になっている人も少なくないんじゃないでしょうか。動力にしていけない人はその女性像と周りと自分のギャップに苦しむというような。一方ではそんなのに関係なく軽々と毎日を楽しんでいる人もいます。
「お母さん」というのは女性が外で仕事をしていようがいまいが、子どもがいたら、否応なくお母さんであることを社会よりなによりもまず子どもから求められます。そこから脱することはできません。私は、他人に任せられない領域があるということを子どもを持って初めて知りました。カタチとしては人に頼ることはありますが、完全なる人任せはできないのです(これはいのちの問題だから)。
ひと昔前のお母さんが家にいたカタチをとらなくとも「お母さん」という「女の仕事」自体はなくならないものだと思います。女性たちは家庭を守る仕事を女だけが一手に引き受けてやるのはおかしい!と一度ちゃぶ台返しをしました。今は社会全体で再構築しようとしているところです。みんなで手分けしてやろうよと。とても良いことです。しかしまわりを見回すと、実はお母さんが自分で引き受けないといけない場面がたくさん出てきています。子どもが発するメッセージ(発達障害や不登校を含む)に直面している人は、子どもは放っておいて自分のやりたいことだけやるということはできないと思います。気になることばかりでそれどころじゃない。自ずと働き方を変えないといけない状態になっていると思うのです。
外で働いていたら料理や家事に割ける時間が少ないのだから複雑に手をかけた家庭料理でなくてもいいんだ、掃除洗濯ももっと簡単に!と考えを変えていく、工夫を凝らしていくのも大事です(かえって丁寧さに目覚めることもありますね)。私はそれと同時に、上で紹介した野口先生が半世紀前にすでにおっしゃっていたように、働くことを前提とした子育てではなく、子育てを前提とした働き方を世のお母さんたちがそれぞれに作り出して、結果的に社会が変わっていくようになると思っています。それは家事や育児を楽することや人任せにすることではなく、前の時代から受け継いだものは受け継いだものとしてほんとにこれで体に合うのかな?と精査をするために、一度完全に肩の力を抜いて体の面から見直していくことが必要だと思うのです。
母親の仕事を考えると家庭の外に出て行きにくいという面はあります。しかし女性の自立という面では社会に出て働くことは大切です。パートで扶養内という働き方はそれまで家にいた女性が外に出ていく時の一時的なもののはずで、永遠に固定されたものではないはずです。一方で男性と同じ働き方をしないと暮らせないがそれでは子育てがきちんとできないという状況もあります。今働いて子育てをしている人が今の枠組みの中でなんとかするのではなくて、その枠組みから少し外側へ出ていって新しく大丈夫な方法を作り出す、ということも必要なのだと思います。
自分のやりたいことを諦めずに子育てすることはできます。よく見回すとどっちかを犠牲にしなくてもいい状況ををうまく自分で作っている人がいます。今悩んでいる人はトライする価値はあると思います。そうすると、今までの枠組みから外れる瞬間が絶対に出てきます。その時ちょっと痛みや苦しさが伴うかもしれませんが…私は言いたい「そんなので引っ込んでたら、うんち出せないよ!うんちは出るもの。そう、必要があって出るのです!出たあとは爽やかじゃないですか!」
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余談1:こういう時に産みの苦しみというイメージを安易に使ったらダメです。構築したものが一気に前の感覚に引き戻されるからです。だから考えなくても自然に出ちゃううんちに登場してもらいました。うんちなら男性も感覚的にわかりますし。ちなみに出産(や月経)は母体にとっては排泄です(汚い意味に捉えないでください。体の外に出す、という意味です)。
余談2:産むことと苦しみを一緒にしないでほしいです。この頑固にこびりついたイメージも変わって欲しいイメージの一つです。でもそれを変えるのにスピリチュアルに頼る必要はありません。女性の体に合うことをきちんと感じてそこから実践する人が多くなれば少しずつ変わると思います。体は確実に現実のことですから。
不登校の中学生
私の娘は今中学一年生で、絶賛不登校中です。まさか自分の子どもが不登校になるとは思いませんでした。が、実は私も不登校の時期があったのです。
私は中2の時に足を骨折した理由でしばらく休みました。骨折が治っても学校に行きたくなく、ちゃっかり延長して休んでいました。その頃は友達関係が悪く(今考えると私に十分原因があったと思います)、行きたくなくなっちゃったんですよね。もう35年近く前のことですから、その頃は問題児といえば不登校より素行の悪い方でして、当時不登校というのはほぼいなかったと思います。親と学校の間のやりとりは何も聞いていません。おそらく「治るまでしばらく休ませます」で終わったのだと思います。2学期の途中から冬休みいっぱいまで休んで、途中2学期の期末試験だけ受けに行きました。学校からは「骨折しても学校には来るものですけどね」と言われたことだけは覚えてます(笑)
私の場合は骨折というイベントがあり、病院の「治りました」ではなく、幸いにも「(友達関係も含め)私の治った感覚」を優先させてもらったからうまく復帰できたのだと思うのです。それはひとえに親が「学校に行け行け」言わなかったからだと思います。「今日も休むの?」と聞かれた記憶はあるけど「行きなさい!」とは一切言われませんでした。なのに、私は割と娘に行きなさいと言っていました。なぜか元当事者のくせに現当事者を追い込む系。((((;゚Д゚))))))) これじゃいけませんがな!! というわけで、私は「何も言わない・ただ観てる・大事なことは体を通して伝える」と決めました。
子どもは体が育つスピードが各々の子で違います。大まかに「ここはこの年齢にぐんと育つ」というのはあります。ただ実際には幅があるものです。さらに何らかの理由でそこの成長がつかえていたら、つかえたところはそのままで先に進んでしまいます。成長中はいつもアンバランスなのが当たり前の中でバランスをとって生きているのです。これが一人一人の個性に繋がっていく要素の一つになっているのだと思います。
つい先日駅で娘と電車を待っていたら、特急が通り過ぎた時の大きな音に、娘はぱっと両手で耳を塞ぎました。耳がまだ過敏なのだなぁと思いました。それから娘のお腹に愉気しています。治すためではなく、体を通して成長のつかえを一度ハッキリさせて、自分の力で育つためにやっています。やっている最中なので、いつまでかかるかはわかりませんし、過敏なのは耳だけの問題でもありません(女の時期に入りかけだから)。でも体に働きかけて何かが変わり出すことはあるのです。動き出したらあとは様子をみたらいい。こういう時間がかかることは親だから付き合えると思います。
子どもは常にメッセージを発しています。でも、言葉では上手く伝えられない体からのメッセージなのです。周りはそれを感じ取るしかありません。
お母さんの仕事の大きな部分は相手を感じ取ることと言えるのではないでしょうか。女性は相手を感じ取る能力が高いといわれています。そういうことに敏感になる期間が「生殖にむいている月経のある期間」なのでしょう。子どもがいるいないに関係なく、女性のそういう能力が、生活の中で必要により発揮され開拓され身について、ずっと続いていくのだと思います。
導くための少しの先回りの絶妙なバランス感覚
整体の子育てでよく言われていることがあります。「シャツのボタンを自分でかけたい幼い子ども」に対して親はどうするか。
「上のいくつかをやったらあとは自分でやらせる」です。はじめだけやってあげると、待っている間に本人の意欲が高まります。そのあと自分でやらせると最後までやります。自分でやりたい要求も叶えられ、最後までできた満足感も得られる。次ははじめから最後までやってみたいと思う。これが導くための少しだけ先回りの絶妙なバランス感覚なのだと思います。
生活の中のなにげない「手伝ってあげる」ということ一つとっても、先回りの質がどこに向いているのかで変わってくるものがあるということです。
よくあるパターンはこうじゃないですか? 親が不安から先回りしてしまうと、全部やってあげてしまいたくなり(もしくは待っていられなくなり…こっちの方が多いかも)、子どもの抵抗にあうと逆に「全部自分でやりなさい」となってしまったりしませんか? そしてできなかったら「自分でやるって言ったじゃない!」みたいに責任を問うてみたり…。ああ、痛い、自分で言ってて自分の耳が痛いです。
ここでいう不安とは、時間に追われてて生活を回すことに一生懸命になっていることも含みます。みんなが時間に縛られてますからね。子どものペースでもなく、ましてや自分のペースでもなくなってしまっているのです。子どもについうるさく言ってしまってその度に後悔しているようであれば、一旦立ち止まって自分の状況を見直してみる時です。
何かをしてあげようと思うときに前もっていろいろ準備することは必要です。ただ、いつでも先回りがいいわけではありません。子どものペースを守るために自分のペースも乱さないでいられる環境づくりが重要なことだと思います。家には体全部が安心できるあたたかさがあれば良いのだと思います。それを作っておけば、子どもはいずれ安心して外に出ていけます。
子どもが小さいうちはいっぱい手伝ってあげる中で自分でできるように導いてあげることが必要でしょう。思春期の場合は親がしすぎることが逆に負担になることも多そうです。思春期の子どもに問題が起こっているからといって、お母さんがやっきになってあれこれ手出しするのもまた違うのだと思います。親子関係がこじれている中に、よかれと思っているから自分ではやりすぎているとわからないことがあります。そういうときはお母さんの体を整えた方が話が早いのです。
自分の身の周りから深めていこう
「女はいつ勉強するんですか」という言葉を聞いて、どうでしたか?
「問題が起きた時こそが勉強を深めていく時です」と先生に教わりました。こういう時はこうすると誰かに教わるだけの勉強は勉強と言わないんですね。自分で実践して深めていくしかない。
実践とは、人を応援したり手伝ってあげることの中にあるようです。そこから拾って積み上げていったものが自分になりますし、誰かに伝わっていくものだと思います。
目の前のことを放っておいて、遠くの問題に首を突っ込んでも状況は変わりませんから、身の回りにもう一度目を戻していく、自分の体に感覚を戻していくことで、本当にやらなくてはいけないことに向かっていく力が出てくるのだと思います。
探す必要なかった。ここにあったわ。と。
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今回は体の構造からの「女」、お母さんであること、我が家の現在進行中のこと、勉強の題材は目の前にあるよ、ということを自分の置かれている状況から書きました。
最後までお読みくださりありがとうございました。
Photo by natasha jreissati on Unsplash
数多くの中からここに出会ってくれてありがとう!