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与えられてばっかりや
タイプロ、5次の結果が発表された。
X上では言葉の刃が飛び交っていて、なんだかコンテンツとは別のところで人々の感情だけが傷つけ合っている。
あんまり見ないでおくのが精神衛生上よい。
今回はタイプロの本筋とはあまり関係ない話。
タイトルの「与えられてばっかりや」は4次審査通過時の篠塚が放った、少年ジャンプの主人公みたいな言葉だけれど。
私はいつも「与えられてばっかりや」と、私の好きなアイドルに対して思うのだ。
2週間前くらいのある日、仕事の買い物でドラッグストアに行った。ふと耳に飛び込んできたのが大好きなAぇ!groupの新しい曲「Hello」だった。
ハロー!聞こえるかい?僕の中の僕よ
踏み出す瞬間は いつだって“今“だ
その時の私は、とてもとても疲れていた。やりたくないこと、やらないといけないこと…足取りは重かった。そんな時に耳に飛び込んできた、大好きな人の声。めちゃくちゃ元気になった。正門くんの声ってまっすぐにこっちの気持ちに飛び込んでくるのよな。その後に続く、Aぇ!groupの顔とも言える末澤誠也のパートがさらに力をくれる。
冗談じゃねぇよ
いつだって“今”こそが そうじゃないか
職場に帰ったらキビキビ動こう。
単純だけどアイドルにはとてつもない力があるなと思った。
もう一つ。Aぇ!groupの「しあわせもん。」という曲がある。2024年のデビューツアーで、大好きなメンバーが、リフターに乗りながらキラキラして届けてくれたこの曲は、去年の下半期の私をずっと支えてくれていた。その「しあわせもん。」を、アコースティックver.でAぇが届けてくれている。仕事帰りに開いたYouTubeを聞いて泣いた。ひとつ一つの歌詞を、メロディーを、Aぇの5人がものすごく大切に届けようとしてくれていることが伝わったからだ。デビューしても変わらないAぇの原点。ファンを決して遠くに置き去りにしない優しさがいっぱい詰まったアコースティックライブだ。
ずっとスタエン(元J)のグループが好きで、その時々で一番「現場に通いたい」と思うグループは違ってはいるけれど、いわゆる「推し」というのとは私の場合ちょっと違うなぁと思っている。もちろん、オタク特有の「ニッチな魅力語り」はやっちゃうけれど、それは他の誰かにサジェストしているのではなくて、あくまでも、自分がどんなところに感情を動かされているのかを聞いてもらいたいだけだ。感情を動かされるようなパフォーマンス。感情を包み込んでくれるようなパフォーマンス。与えられてばっかりなのである。そのお返しとしてできることなんて何もない。「CDを積む」こともないし、グッズも欲しいものを買う。「推し活」している人からすれば「積まない者、見返りを受けるべからず」かもしれない。
けれど、与えてもらったパフォーマンスには最大の笑顔を、最大の拍手を、腕が振り切れそうになるほどのペンライトの動きを返したいとは思っている。目の前に来て指さしてくれたらそりゃ嬉しいけど、それがなくても、どんな場所でだってパフォーマンスは楽しめる。
そしてアイドルって、ライブで出会ったその一人ひとりの笑顔に対して「最高のパフォーマンスで返したい」って思ってくれてるんじゃないかな、って思っている。
お互いに「与えられてばっかりや」なんじゃないかな。
「推し」って言ってしまうと、自分の「推し」以外の人が「推される」ことに納得がいかなくなったり、「推し」た分だけの見返りが欲しくなったり、とにかく自分の「推した」という行動に対しての答えが思った答えではなかったときに、他責思考になってしまうんじゃないかなって思う。「与えられてばっかり」でいいんじゃないの。与えてもらったことは、自分にできる方法で返していけばいいんだから。
つい先週、しんどかった仕事がひとつ終わったが、何度やってもうまくできなかったことを「篠塚だって、できるようになりたくて努力しまくってたんだから、私だってやってやる!」と言い聞かせて少しだけできるようになった。50歳を超えて何か新しいことができるようになる、ってなかなかだ(と、自画自賛しておく)。ほんま与えられてばっかりやけど、篠塚からもっともっとたくさんのものを与えられたいと思ってるから、私はテレビの向こう側で君のこと精一杯応援しておくね!まだ何者でもない君のことを。