who to (BFC6応募作品)
1
駅自体が観光名所であるここはとにかく人が多い。これなら少しは身を隠せるかもしれない。腰を屈めながら言われるままに進む。
あの女はどうなった?細い眉毛を歪ませて俺にこれを渡してきた女、俺の人生には1ミリも縁がないであろういい女。その目に一瞬だけ浮かんだ侮蔑の欠片を俺は見逃さなかった。お高く止まりやがって。次に会ったらその横っ面を札束で引っ叩いて泣かすぞ?
貧弱な妄想は直後ただならぬ空気を纏った男たちの姿によって瞬時に恐怖へと変わり俺を現実へと引き戻した。あの女も俺も捕まればおそらくただじゃ済まないだろう。そして災厄は既に女から俺へと移っている。くそ!最悪だ……いや逆だ。最悪なのは昨日までで明日には金が入る。あの地獄のような取り立ての日から抜け出せる。巡ってきた一発逆転のチャンス。大丈夫だ。今ツキは俺にある。
あれか?ロッカー横。グレーのスーツ。ノーネクタイの男。この男でいいんだな?こいつに渡すんだな?災厄をこの男に移す。もういいな?終わりだな?逃げるぞ!来た来た来た!金だ!金が入る!俺の、俺の金だ!ギャンブルはもう止めるんだ!地道にコツコツ働く!今度こそ生まれ変わるんだ!
2
指示通りに売店で買った十二個入り千二百円のお菓子のお土産袋の中に渡された茶封筒を入れる。しばらくしてたくさんの男達が走ってくる。バラバラの格好だけど全員が上下とも黒で統一しているのが異様だし、そもそも大人が真っ昼間に集団で走っているなんて異常でしかない。たぶん、ていうか絶対さっきの人が追われていて、原因はたぶんこの封筒だろう。ああ、会社でも厄介ごとには巻き込まれないようにと上手くやってきたのに。 いつまでやるんですか?もう早く終わってほしい。新宿なんて行かなければよかった、大久保公園なんて近づかなければよかった。我慢していれば、こんな風に脅される事もなかったのに、なんで……。
電車に乗り次の次の駅で降りる。怪しそうな人はいないけれど分からない。怖い。ホームの真ん中の階段を降りた先にあるトイレに向かう。個室、はい空いています、奥の個室空いています、はい、そこに封筒を置くんですね、置きました、え、置いていいのかな?え?終わりですか?もういいんですか?終わり?これで許してくれるんですか?これで内緒にしてくれるんですよね?あの、これで家族には黙っててくれるんですよね?会社にもですよね?え、あ、あのこれ、お土産はどうすれば、あれ?え?あ、あの……。
3
定時の巡回清掃。その旨を主任に伝え事務所を出る。途中、用具を取り南口トイレに向かう。いつもの時間通りだけど、いつもの作業とは違う。カートを押す手が汗で滑る。何かが詰まったように耳の奥がぼわんとしている。トイレに着いた。いつものようにを心がけ、ごく自然に只今清掃中の立て札を男子トイレ入口に置く。個室2つ、小便器3つ。今出て行った人がいて無人になった。誰もいない。奥の個室に封筒?ある、あったわ。この茶色い封筒でいいのよね?これをカートの中段に入れればいいの?中段、入れたわ。え?このままいつも通りに掃除をするの?封筒はどうするのよ?このままでいいの?分かったわ、これで終わり?言うこと聞いたら万引きのことは黙ってるって約束だったわよね。もう何も言ってきたりしないわよね?言われた通りやったわよ。あんたの言う通りにしたわよ、見てるなら何とか言いなさいよ、ちょっと!だいたい万引きだって本当は私が悪いわけじゃないんだから!なんで私がこんな事をしなきゃいけないのよ!偉そうに命令なんかして!ちょっと!見てるんでしょ!男らしく出てきなさいよ!馬鹿にしてるの⁈何とか言いなさいよ!
4
あるらしいでも、あるとの事でもない。
言われた時刻、言われた場所にブツは必ずある。それを疑問に思う必要はないし余計なことも考えなくていい。カートから取ってデイパックにしまう。誰も見ていない。壁に耳あり障子に目ありなんてのはもう昔の話で、今の世の中、他人のことは見ないし言わないし聞いたりはしないのだ。そして俺自身も余計なことは見ないし言わないし聞かないし考えない。それがこの職業を長くやっていくコツであり俺のような人間が生きていく術だ。
AからBへブツを動かす。それだけだ。指定時刻に指定場所である線路脇にいるウーバーイーツの男にブツを渡す。こいつが誰だとかブツが何であるとかはどうでもいい。この角を曲がれば全て忘れる、まさに今。
俺は何も運んでない、俺は何も知らない。
5
レンタルの電動自転車を線路脇のポートに止めた後、タクシーと徒歩でマンションへ向かう。もちろん後を付けてくる者はいない。
ドアチェーンを掛け、警備システムを在宅モードへ切り替える。机の上にある数台の無線機をごみ袋に詰め空いたスペースにウーバーイーツのバッグを置き、封筒の中身を確認する。間違いない。これだ。手間はかかったが、これにはそれだけの価値がある。そして価値あるものはその価値を正しく理解している者が扱うべきである。私なら価値以上のものを生み出せるだろう。
しかしまだその時ではない。上質の赤ワイン同様、本当に良いものは眺めているだけでも楽しませてくれる。表紙から漏れ溢れ出す芳醇な香り、これは紛れもなく逸品だが頃合いまで僅か、あと少しだけ寝かせて置こう。
※
表紙には社外秘とコンフィデンシャルの赤いスタンプが押され『イグ物語(仮)初期設定資料集』と書かれている。 (了)