私が泣いてしまう曲・ゆるやかな遺書として
何度聴いても涙が出てしまうという曲が私には3つあります。
涙がでるほどの名曲というのはきっと他にもたくさんあることでしょう。私はそれほど多くの曲を聴くほうではないので。
泣いてしまうツボは人それぞれですし、泣けるから名曲というわけでもないでしょうが、泣くほど心を動かされる曲ですから、やっぱり自分で熱く語ってみたい気持ちになります。ただ、そういう個人的な強い想いに、他人はそれほど興味を持たないものです。なので、そういう記事というのは、書きたいけど書かないほうがよいのだろうなと、ずっと思っていました。
ですが、この3つの曲に共通しているテーマは「生と死」だと私は思っていて、私もだいぶ歳をとり、いつ死んでもおかしくない年頃だと考えれば、私の泣ける神曲についても語ってみていいだろうと思い至りました。それは私が死んだあとも生きている人たちに向けてメッセージを送ることになるからです。つまり、ゆるやかな遺書ということです。
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種ともこ「守ってあげられないこと」
(2009年 作詞作曲・種ともこ)
子どもの成長を見守る親目線の曲です。
ラブソングの定番フレーズに「守ってあげたい」があるとしたら、「守ってあげられない」はその上をいく究極の愛の言葉になると思います。
親として「守ってあげたい」という愛は当然あります。でも愛があればこそ、いつまでも子を守ってばかりではいられない。親が守らなくても自分で自分を守って強く生きていけるように、時に厳しく突き放すことも考えなければならない。
ついつい手を出したくなるのを我慢して、子どもたちが泣きながらででも自分の足で立ち上がるのを見守らないといけない時がある。そうこうしているうちに、子どもたちの抱える問題はどんどん難しくなって、守ってあげたくても守ってあげられないようなことも増えてくる。
そして、そんな親のヤキモキなど知ってから知らでか、いつしか子どもたちは親に守ってもらう必要などなくなって、自分で自分の人生を歩きはじめる。
親なんかいなくて全然平気だと子どもに思われることこそ、親にとって最高に嬉しいことであり、最高に寂しいことだ。子どもが巣立って寂しい思いをすればするほど、自分は親として最高の幸せを子どもたちから受け取った証となる。
子どもが巣立ったあとに親にできることは、子どもたちの人生の旅路の無事と幸せを遠くから祈ることだけです。
「愛しいやさしい思いだけで世界ができてたらいいのに」と種ともこは祈るように歌います。自分だって高校を出て親元を離れ、親の助けなんて要らないと思って生きてきました(本当はその後もたくさん助けてもらってきたのですが)。それなりに大変な、決して愛しいやさしい思いだけでできてはいない世界を生きてきて、それでもやっぱり子どもたちが生きていく世界は愛しさとやさしさだけでできていてほしいと祈らずにはいられないのです。
森山直太朗「生きてることが辛いなら」
(2008年 作詞・御徒町凧 作曲・森山直太朗)
この曲を初めて聴いたのは発表されてから10年くらい経ってからでした。たまたまネット記事で「自殺を勧めるような歌詞で、賛否両論あった」とあって、いったいどんな曲なんだと思って探して聴いてみたのです。そして、泣きました。
最初に思ったのは「全然、自殺を勧めるような詞ではないじゃないか」という否定派意見に対する腹立ちでした。
ちょっとしばらく話題がずれますが・・・
こういう作品の解釈についての炎上騒ぎは時々あります。でも「これの何が問題なの?」というものも多い気がして、読解力や感受性が低い人はもう少しそれを自覚して発言してほしいなと思ってしまうのです。
私は昔から国語の成績が良い方だったのですが、国語が苦手な理系の同級生などは国語の採点にイチャモンをつけがちだったです。「文学作品にはいろんな解釈があっていいのだから、自分の答だって正解なはずだ」と。でも、違いますよね。
文学に限らず、表現作品には色々な解釈があり得て、「正解」がひとつに定まるとは限らないという主張は正しいと思います。「作者の意図」なるものが明確になっているとは限りません。作者自身が「言われてみればそういう解釈もありかもね」とあとで指摘されて思うこともあるかもしれません。だから「この答の他にも正解がありますよ」という指摘はあり得ます。しかし、だからといってあなたのその答が正解かどうかはまた別の話です。
間違った答、的を射ていない答というのは確実に存在します。「間違った解釈などというものはない」としてしまったら、コミュニケーションは成立しなくなってしまいます。「お腹すいたね」と自分の気持ちを表現したのに、それは「私を殴ってくれ」との解釈も可能ですねなどといって殴られたらたまりません。
だから(少なくともどんな作品にも送り手と受け手のコミュニケーションという要素があるのだと考えれば)、解釈に「不正解」は必ずあるのであり、国語の苦手な同級生の答は残念ながら不正解だったということです。そして、森山直太朗の「生きてくことが辛いなら」を自殺を勧める曲だという解釈は間違いなく不正解だと、私は断言するのです。
閑話休題。
私がこの曲を聴いていつも泣いてしまうのは、この曲が「すでに死んでしまった者が、まだ生きている人たちに向けて、“悲しまなくたっていいんだよ、これからも自分の人生を精一杯生きていってね”と語りかける曲」だと思うからです。
「いっそ小さく死ねばいい」と最初に言ってのけるのは、「自分の死」がそれくらいなんでもない、些細なことに過ぎないんだよ、という表明なのです。
みんな誰だっていつかは死ぬんだよ。私が死んだのも自然なことで、悲しむようなことではないんだよ。あなただってどうせいつかは死ぬんだし。いくら悲しかったとしても、あなたまで急いで死ぬことはないよ。
そうやって、自分の死を悲しんでくれているかもしれない人にむけて、悲しんでくれてありがとう、その悲しみはそっとどこかにしまっておいて、どうぞあなたはあなたの人生を全うしてくださいね、とエールを送っているのです。
私にはそうとしかこの曲を読み取れません。何をどう聴いたら安易に自殺を勧める曲だと思えるのか。そう思える人は、もうちょっと自分の読解力と感性の乏しさを嘆いてほしいです。すみません、辛口で。
私が死んだら生きている人たちに、この曲をこそぜひ届けたいと思っています。
赤い公園「pray」
(2020年 作詞作曲・津野米咲)
この曲については若干番外編的ではあります。というのもこの曲は赤い公園のギタリストであった津野米咲が29歳の若さで急逝したのちに発表された、津野の遺作となってしまった曲だからです。つまり私が流す涙には亡くなった津野とその後に解散した赤い公園への哀悼という意味が加わっている事情があるからです。
この曲も、遠くに旅立った大好きな人に向けて祈りを捧げるという構造になっています。残された私たちがたったひとり旅立った津野に向けて祈っているようでもあり、津野が私たちひとりひとりに向かって優しく語りかけてくれているようでもある。この曲のデモが作られたのは発表より3年も前のことだそうですし、詞のなかに死を暗示するような言葉があるわけでもない。でもどうしても、そう読み取りたくなってしまう。
もう二度と会うことのない永遠の別れだからこそ「それじゃ、またね」と言い、あなたの旅路が美しい青空の下、優しさに満ちたものであることを祈る。そう、祈ることしかできないのです。
この曲自体が名曲なのは間違いないとしても、津野の遺作であるというと意味が加わってしまったことで、人が人を悼む普遍性を持った、永遠の鎮魂歌になってしまったのだと思います。
私が誰かを見送るとき、あるいはみんなに先んじて私がひとり旅立つとき。お互いの人生を心から肯定して、お互いの旅路に幸多からんことを祈りながら、笑顔で「それじゃ、またね」と言ってお別れをしたいです。
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私の雑文は取りとめもなく残念なものですが、ここで紹介した3つの曲はどれもとても素晴らしい名曲ですので、私が死んでしまいましたら、ぜひこれらの曲を探して聴いて、私の想いを想像しながら私が流した涙を追体験してみてほしいです。
私もあなたが愛しい世界で美しい旅を続けていくことを、遠くの空でそっと祈っています。大丈夫、どんなに辛くてもいつかは終わりが来て、みんな同じところに行くのですから。
もちろん私もまだ当分は生きていますけども。