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「鉄道員(ぽっぽや)」の「憤死」―没後10年・高倉健(前編)
はじめに
2024年11月10日、映画俳優・高倉健が亡くなられて10年となった。
東映スター時代がリアルタイムでない私にとって、私の中の高倉健像は、映画「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)で厳寒のホームに立つ駅長・佐藤乙松の姿だ。
高倉健が好んだ言葉「寒青*」を彷彿とさせる真っ白な世界に屹立する姿が目に浮かぶ。
*漢詩に表れる語で、「凍てつく風雪の中で、木も草も枯れ果てているのに松だけは青々と生きている様子」を表す。王陽明の語とされている。
以前に「鉄道員(ぽっぽや)」について以下のような記事を書いたが、その際に消化しきれないキーワード「憤死」と「キリスト昇天」がずっと引っかかっていたので、没後10年に合わせて記事にしてみたいと思う。
監督が見た「憤死」
一般に「癒しの映画」とされる「鉄道員」だが、監督の降旗康男は後年以下のように語っている。
この映画を見て慰められたといった手紙やメールをたくさんいただいたんです。でも僕は、乙松が怒って憤死する映画を作ったつもりでした。「こんな癒しの映画は、今までになかった」と言われると、「そうじゃない。これは恨みつらみの映画なんだ」と思いましたけれど、それはお客さんそれぞれの受け取り方でしょうがないことですね。
改めて映画を見返しても、乙松(演:高倉健)に目に見えて憤る場面はほとんどない。
あるとすれば娘・雪子の訃報を受けた際の「そったらことってあっか」と声を荒らげるシーンくらいだろうか。
しかし関連書籍を読んでいくと、監督の演出意図が見えてくる。
乙松というこの映画の主人公は、日本という国の被害者だと思うんです。その被害者がどんなふうに歯を食いしばって、我慢して生きてきたか。でも結局は、老後の保障もあまりなく、顧みられることもない。
(「鉄道員」メイキング編集部,1999)
岩間さん(脚本・岩間芳樹)は、この作品の背景に北海道史を重ねたいとおっしゃるんだけれども、それは言ってみたら、日本の戦後史だと思うんです。これは、日本の戦後に引きずられて生きて、見捨てられていくひとりの男の話だろうと。
つまり、戦後高度成長期に入り「D51やC62が、戦争に負けた日本を立ち上がらせ、引っ張るんだ」と信じて「親父の言葉を信じて実行してきた」が、仕事を優先するあまり娘も妻も顧みず、挙句早くに亡くし、景気の悪化とともにその犠牲で得た誇りである仕事も奪われてしまう―そんな男の悲哀とやり場のない怒りを全編に渡って描いているのだ。
また、監督はこれが乙松のみに降りかかった個人的な不幸でないことを語るために、以下のように述べている。
原作にはない、志村(けん)さんの炭鉱夫と奈良岡(朋子)さんの食堂の女主人は、被害者という意味で重なってくるかなということで、登場させてもらったんですけれども。
(「鉄道員」メイキング編集部,1999)
この「憤り」に関して、高倉健は演技プランとして以下のようなことを考えていたという。
映画の中で、もう三月で廃線にすると聞かされ、「いろいろ気を遣わせたね、ありがとう」と電話をきったあと、土足でパァッと走りまわりたいと言ったんです。そういうのはだめかと。じゃ、それがだめだったら、帽子を叩きつけて、しばらくして、またすごすごと拾って、かぶり直して外に出る。それもだめかって。いや、抑えてください。怒りはやっぱりぐっと抑えてほしいと。ぼくはそういう芝居を考えていましたよ。やっぱり国鉄の象徴みたいなあの帽子を叩きつけたいと思いましたけど。
監督はやっぱりさせませんでした。
(「鉄道員」メイキング編集部,1999)
では、監督は「恨みつらみの映画」としながらも、何故その怒りは抑えるように指示したのか。
その意図は、もう一つのキーワード「キリスト昇天」につながるように思う。
引用含め長くなったので、以降は「後編」とします。
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