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山鹿流陣太鼓は鳴っているか・・・・? !

あれはまさしく山鹿流陣太鼓!

以下のような記事を書いて早一年。またこの季節がやってきた。

前回同様、三波春夫「元禄名槍譜俵星玄蕃」を引用する。

時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立上り、耳を澄ませて太鼓を数え、「おう、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ」助太刀するは此の時ぞ、
もしやその中に昼間別れたあのそば屋が居りはせぬか。

三波春夫「元禄名槍譜俵星玄蕃」(1964年)より

「忠臣蔵」の大詰め、揃いの火消装束に身を包んだ四十七士が吉良邸に集結し、いよいよ仇敵・吉良上野介を討たんとする場面で、大石内蔵助が開戦の合図のように印象的に打ち鳴らすのが、この「山鹿流陣太鼓」だ。

この太鼓によって、上記の俵星玄蕃は赤穂浪士の討ち入りを知り、吉良邸の警備に就く浪人は、赤穂浪士が討ち入りに来たことに気付くのである。

しかし、この「山鹿流陣太鼓」は後年の創作であると言うのが、一般的な見解である。その理由としては、

  • 討ち入りの計画を記した「人々心得之覚」に太鼓の記述がない

  • 山鹿流に陣太鼓の打ち方について記述がない

  • そもそも「陣太鼓」は背負うもので、手提げ型のものは無い

  • 夜討ちをするのに太鼓を鳴らして気付かれたのでは、夜襲の意味がない

といったところである。

「武教全書 2巻」(山鹿素行著/1844年)に記された山鹿流の太鼓。
浮世絵などに描かれるタンバリン状の太鼓とは形状が異なる。
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

では「討ち入りの際に太鼓を打つ」というイメージはどこから来たのか。
その成り立ちについて考えてみた。

何かしら音はしたらしい現場

討ち入りの際の太鼓のイメージ。その形成は、他ならぬ当時の現場から起きている。
討ち入りが起こって間もない頃の記録として、討ち入りの際に太鼓らしき音がしたことが複数の資料に記録されている。

浅野内匠頭家来ト名乗大勢火事装束体ニ相見へ押込申候、長屋之方弐ヶ所ヘハ階子はしごヲ懸ケ置、裏門之方ハ扉ヲ破大勢押込 太鼓など 火消ノ体ニ仕

吉良左兵衛義周「口上書」より

火事ト申表門・裏門ニ太鼓ヲ打声ヲ合セ門ノ戸ヲ懸槌ニ打開キ押込弓ヲ射込

大熊弥一右衛門「大熊弥一右衛門見聞書」より

表門之方御長屋二ヶ所橋子はしごヲ懸裏門ハカケ槌ト大木テコニテ戸ヒラヲ打チ破リ火事太鼓ヲ打火消装束ニテ押込

野本忠左衛門「野本忠左衛門見聞書」より

上記の文献から、当時、太鼓を思わせる音がしたこと、特に裏門の方から音がしたらしいこと、太鼓のような物音は「火事太鼓」であると理解したことなどが窺える。

実際、赤穂浪士は表門と裏門に部隊を分け、裏門隊は掛矢(大槌)で門を破壊して侵入しているため、裏門側から大きな物音がしたことは間違いない。

江戸の火事と火事太鼓

時代劇などで火事のシーンが描かれると半鐘が鳴っているイメージが強いが、江戸時代に火事が起こった際にまず鳴らされるのは火の見櫓に設置された太鼓であった。
火事太鼓と半鐘の鳴らし方には厳密なルールがあり、櫓ごとの叩く順、回数に決まりがあったため、火事太鼓の音が聞こえると、江戸町民はその回数を数え、火事の距離や火事の広がりを把握したようだ。
特に火事は空気が乾燥する冬場や、火の不始末によって夜間に発生することも多く、「赤穂事件」が起こった1702年だけでも出火場所と鎮火場所の距離が1.6km以上に広がった火事が10件程度発生している。
このことから、夜間に大きな物音がした際、まず第一に「火事太鼓」であると考えるのは、江戸に住む人間からすれば、当然のことと考えられる。

以上のことから、討ち入りの際の裏門の破壊音が町中に響き、これを太鼓の音であると誤認したことが、「討ち入り=太鼓の音」というイメージを早期に形成し、後の創作に影響を与えた可能性が考えられる。

舞台演出としての太鼓

「赤穂事件」は江戸町民に大きな衝撃を与えたようで、同時代の事件を文芸作品として扱うことはご法度であったにもかかわらず、事件の翌年には「赤穂事件」を題材にした「傾城阿佐間曽我けいせいあさまそが」が歌舞伎の演目として上演されている。
以後も「赤穂事件」は題材として取り上げられ、その決定版とも言うべき「仮名手本忠臣蔵」が1748年に完成した。
しかし、この「仮名手本忠臣蔵」に「陣太鼓」の記述は無い。

假名實名大名袖印其數四十六人なり。鎖袴に黒羽織に忠義の胸當打揃ふ。
實に忠臣のかな手本義心の手本義平が家名。(中略)
郷右衛門と某ハ裏門より込入て。相圖の笛を吹ならバ、時分ハよしと乗込よ。取べき首ハ只一ッと。
由良の助に下知せられ怒の眼一時に。館を遙に睨ミ付裏と表へわかれゆく

「浄瑠璃大全. 第1 仮名手本忠臣蔵」(和田三郎 編/1882年)より

討ち入りの計画を記した「人々心得之覚」にも登場する笛は、合図として使用されることが分かるが、由良助(大石内蔵助)が陣太鼓を掲げたり、太鼓のようなものを打ち鳴らすといった文言は無い。
しかし、1912年の演劇叢書には以下のような記述がある。

(注:上記「浄瑠璃大全」引用部分のト書き)
此内あつらへの鳴物、雪おろしをあしらひ、向ふ東の揚幕より由良之助畫面えめんなり、兜頭巾をかむり采配を持ち出づる、跡より若衆の義士、陣太鼓を持ち附添ひ
(中略)
此内皆々舞臺ぶたいへ来り、上手に由良之助陣太鼓を取つてきつと見得

「仮名手本忠臣蔵」(演劇叢書 ; 第7編)(高野辰之, 南茂樹 校/1912年)より

由良助が明確に太鼓を打つシーンはないものの、陣太鼓を持って見得を切る演出があることが分かる。また、「雪おろし」とは歌舞伎下座音楽の一つで、雪が降っている情景を太鼓の音で表現する方法である。
演劇叢書では続けて、吉良邸門前から吉良屋敷内に舞台転換する際に、「雪おろし」が続くト書きがあり、以下のような台詞が続く。

諸士「半齋殿、アノ太鼓の音は何事でござるな」
同「よも只事ではござるまい」
同「貴公は御存じござらぬか」
半齋「アノ太鼓こそうたがひもなき塩冶えんや浪士の夜討でござる」

同上

実際に舞台上に鳴っている太鼓の音は雪を表しているが、台詞では太鼓の音を吉良方の浪人が察知しており、現代の「忠臣蔵」につながる、討ち入りの合図としての太鼓と認識していることが窺える。

「仮名手本忠臣蔵」では、赤穂浪士が如何に忠義と武勇の備わった武士であるかを語っているため、討ち入りの手法についても寝込みを襲う奇襲ではなく、正々堂々としたものであったことを印象付ける必要があった。実際の「赤穂事件」で太鼓のような物音がしたことから発想し、由良助に陣太鼓を持たせたのではあるまいか。

そして上記の通り、歌舞伎では舞台演出の鳴り物として太鼓が使用されており、由良助が陣太鼓を手に持つしぐさと、そこに流れる「雪おろし」の音が、「討ち入りの際に太鼓を打つ」というイメージを定着させていったのではないだろうか。

陣太鼓が山鹿流である理由

火事太鼓と聞き分けが必要

実際の現場で聞こえただろう裏門破壊の音と歌舞伎の演出としての太鼓、これらが結びついたとしても、なぜ「山鹿流」と限定する必要があるのか。
それは、前述の通り、江戸の町で聞こえてくる予期せぬ太鼓の音は、火事を連想するからである。

冒頭の「元禄名槍譜俵星玄蕃」にしても、「忠臣蔵外伝」として上演された歌舞伎の演目「松浦の太鼓」(1856年)にしても、太鼓の音を聞きつけた登場人物は必ず太鼓の音を数える。
そして火事太鼓とは異なった調子のその音から、赤穂浪士の討ち入りを察知するのである。

これは火事太鼓の数を数える習慣のある江戸町民らしい発想の演出と言え、聞き分けのためには確かに「赤穂浪士が来た」と認識する何らかの流派が必要となったと考えられる。

赤穂藩と山鹿流

赤穂浪士と何らかの太鼓の流派を結びつける必要が出た時に、一時赤穂藩に身を寄せていた山鹿素行による兵法学「山鹿流」はうってつけであった。

史実では、山鹿素行が赤穂藩預かりとなっていたのは、「赤穂事件」の発端となる江戸城松の廊下で刃傷に及んだ浅野長矩の祖父・浅野長直の時代であり、その後の赤穂浪士にどれほど影響を与えたかは定かでは無い。

しかし、山鹿素行は幕府が推奨する「朱子学」を批判したことで赤穂藩に配流されたという経緯があるため、幕府の裁きに対して異を唱え、討ち入りにまで至った赤穂浪士とは通じるものがある。

これを「因縁」と捉え、赤穂浪士は山鹿流兵法を修めていて、それがために討ち入りにまで至ったという筋書きは、上記「松浦の太鼓」など「忠臣蔵外伝」で描かれ、如何に赤穂浪士の討ち入りが必然であったかを補完する役目を果たすのに十分であった。

現代に通じる「格好良さ」の源流

上記「浄瑠璃大全」引用の続きにこうある。

かくとハ志らず高の武蔵の守師直(注:吉良上野介をモデルにした人物の名)ハ、由良の助が放埓に心もゆるむ油断酒。藝子遊女に舞ひうたはせ、薬師寺を上客にて、身の程志らぬ大騒。果ハざこ寝の不行儀に前後も志らぬ寝入ばな

「浄瑠璃大全. 第1 仮名手本忠臣蔵」(和田三郎 編/1882年)より

直前の赤穂浪士の「怒の眼一時に」の緊迫感に対して、ひどい油断と乱れようである。悪漢は打ち滅ぼされて当然の存在として描くことで、赤穂浪士の討ち入りが「義挙」として際立っていく。
絶対的な悪を、主人公たちが正々堂々と戦って打ち負かすストーリーは、現代に通じる王道の格好良さである。

また、秘密裏に忍耐強く計画を進め、最後に大立ち回りがある物語構造は、「007シリーズ」(1962年~)に代表されるスパイ映画や、「大脱走」(1963年)に通じるサスペンスとカタルシスがある。

山鹿流の陣太鼓も、様々な赤穂浪士を格好良く見せる演出の一つであり、これからクライマックスへと向かっていく物語を盛り上げる劇伴として十二分に効果を発揮するアイテムなのである。

「仮名手本忠臣蔵」に代表される「忠臣蔵」の物語は浄瑠璃・歌舞伎・講談と広まり、その後の映画・テレビドラマにまで影響を与え続けている。
以前に書いた記事だが、その流れはアニメ「ルパン三世」にも見ることが出来、その裾野は果てしなく広い。

参考文献・サイト:
見出し画像:芳虎作「忠臣義士銘々伝「い」「大星由良之助藤原良雄」」(赤穂市立歴史博物館所蔵)
「武教全書 2巻」(山鹿素行著/1844年)
ブログ「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録」
(夢見る獏(バク)/2013年)
「浄瑠璃大全. 第1 仮名手本忠臣蔵」(和田三郎 編/1882年)
「仮名手本忠臣蔵」(演劇叢書 ; 第7編)(高野辰之, 南茂樹 校/1912年)
狭山市消防団50年のあゆみ 第1編 火消制度の誕生 第1章 江戸時代の火消部隊」(狭山市/2005年)
「江戸における町火消成立期の火災被害に関する研究」
(宮本房枝/2013年)
その他、「仮名手本忠臣蔵」等Wikipedia該当記事


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