鉄道員(ぽっぽや)―鉄道開業150年に寄せて
鉄道開業150年
2022年10月14日、日本で初めて鉄道が運行し始めて150年を迎えた。
鉄道の開通は人々や物資の往来を盛んにし、今や日常生活に欠かせないものとなっている。そこには単純なヒト・モノの往来だけでなく様々な人間模様・ドラマを生み出すロマンがあり、多くの創作物でも巧みに取り入れられてきた。
今回は孤高の銀幕スター・高倉健の命日に合わせ、廃線間近のローカル鉄道を舞台にした後年の代表作、「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)を取り上げてみたいと思う。
「鉄道員(ぽっぽや)」とは
廃線が決定している北海道のローカル線の駅長・佐藤乙松。鉄道一筋に生き、妻にも娘にも先立たれ孤独に暮らしていた。定年を迎える年の正月、同僚・杉浦仙次と酒を酌み交わし、思い出話に花を咲かせる。そんな乙松の前にひとりの少女が現れ―。それは小さな奇蹟の始まりであった。
原作は本作を含む短編集で直木賞を受賞した浅田次郎。
監督は高倉健の盟友・降旗康男、撮影は木村大作。音楽は国吉良一。主題歌に坂本龍一。
共演には、大竹しのぶ・小林稔侍・広末涼子・志村けんを迎え、翌年の日本アカデミー賞をほぼ総なめにした。
映画化狂騒曲
後年から見れば映画は大ヒット。数々の映画賞を受賞し、高倉健の代表作の一つとなったが、滑り出しは決して良いものでは無かった。
以下、「高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿(大下英治/朝日新聞出版,2017)」の記述を中心に経過を追ってみる。
企画が動き出したのは1997年頃。東映のプロデューサー坂上順が東映東京撮影所長に就任したのを機に、定年を前に高倉健ともう一度仕事がしたいという思いからスタートした。
原作はヒット小説で、スタッフにも監督として依頼した降旗康男にも好感触。しかし肝心の高倉健は首を縦に振らない。
とにかく脚本を作ることだ、と岩間芳樹によって脚本が作られる。
しかしこちらは降旗監督によって書き直し。
その間に年が明け、1998年になる。並行して高倉健への出演交渉も続いていく。
この4日後、高倉健はようやく高輪プリンスホテルで坂上と会うが、ほとんど昔話で終わってしまい、肝心の出演については承諾しなかった。
降旗監督は、「健さんはこの映画が良い映画になるか確証が持てないのだ」
と気持ちを汲み、見切り発車で準備に取り掛かる。
木村大作カメラマンは、一人トラックを駆り夏の間に北海道中をロケハンした。
そして、高輪プリンスホテルの面会から7ヶ月半後、1998年10月初旬に、脚本の決定稿・ロケハンの写真なども揃えた上で、改めて出演交渉の場が持たれた。雪の撮影がメインになることを考えると、ギリギリの時期になっていた。
この後、ようやく高倉は出演を承諾し、1998年内に特報の撮影に北海道に赴く。
坂上が、降旗が、木村が、そして周囲のスタッフが奔走し、高倉の心を動かす。「健さんと仕事がしたい」という思いがこれだけ人々を積極的に動かす。皆高倉健に魅了され、愛していることがよく分かる経緯である。
一方で、高倉に仕事を依頼するのがいかに困難であるかも伝わってくる。経緯を見ると、高倉健は随分気難しいようにも思える。
しかし、高倉自身にも複雑な思いがあったようだ。 「鉄道員」の前に出演した映画は、市川崑監督「四十七人の刺客」(1994年)。「日本映画誕生100周年記念作品」として制作されたが、興行的にも批評的にも失敗に終わっている。
高倉自身「鬘が似合うと思えない」と乗り気でなかっただけに作品が振るわなかったことを気にしてか、「四十七人の刺客」から「鉄道員」まで、映画への出演は、この時点での自身のキャリア最長となる、5年ものブランクを作っている。 これは還暦を過ぎた高倉が、「自身が出るべき映画」を今まで以上に慎重に選ぶようになった表れなのではないか。
また、自身の老いも始まる中で、自身初の「老け役」であることも躊躇した要因だったかもしれない。
劇場パンフレットでは、出演の経緯を以下のように説明している。
何かお互いに作品を作り上げて来た者だけが分かる高尚な会話のようだが、この時のことを帰宅後に、後に高倉の養女となる小田貴月に弾んだ声で伝えている。
また自著でも当時を振り返ってこのように述べている。
表面では軽口なども言っているが、プロデューサーや監督の言葉が、その言葉の裏にある心遣いが、高倉の心に響いたのだろう。
事実、スタッフの想いに答えるべく、高倉は坂上からの手紙をコピーし、「鉄道員」の撮影中ずっと持っていたそうだ。
「鉄道員」が並みの映画より輝いて見えるのは、高倉の「気」が存分に焼き付いているからかもしれない。
作品の魅力
妻や子に先立たれ、それでも毎日・毎時間、駅のホームに直立する姿は、俳優・高倉健の生き様であり、そのまま作品の魅力である。
劇中、夫婦の「ふたりの歌」として「テネシー・ワルツ*」が登場するが、これは高倉自身から持ち掛けたようだ。実際に劇中で口ずさむまでには逡巡があったようだが、高倉の想いを悟った降旗監督の後押しで実現した。
*「テネシー・ワルツ」は、高倉健の元妻・江利チエミのメジャーデビュー曲であった。
また、本作で高倉は髪を白く染め、劇中で涙を流すというこれまでに無い芝居を行っている。若い頃から身体を鍛え上げ、髪は黒くイメージを変えないように努めてきた高倉にとっては新境地と言えるかもしれない。
終盤、高倉が涙を流すシーンの撮影では、これで高倉との仕事は最後かもしれないと思った東映スタッフ全員が涙していたという。
加えて映像として、木村大作による雄大な北海道の雪景色は圧巻で、キハの警笛と合わせて郷愁を誘い、キーアイテムとして登場する赤色とのコントラストも美しい。国吉良一の、時に勇壮で時に優しい音楽もまた、作品を忘れがたいものにしている。
作品はその内容と、坂本龍一が同時期に「ウラBTTB」をリリースし2000年代の「癒し」ブームの先駆けとなったことから、「癒しの映画」と受け取られることが一般的だが、実は降旗監督の思いとは異なる。
そういう視点で見ると、乙松の流した涙の意味も変わってくることになるが、監督の言う通り、名作には多様な解釈があって良いと思う。
その後
スタッフの熱意に動かされ、高倉健にとって19年振りの東映復帰作となったこの作品は、封切られるとたちまち大ヒットとなった。
撮影中は、これが高倉との最後の仕事になるかもしれないと思った東映スタッフだったが、公開直後、「世紀が変わる節目の時期にやらなくてはならないものが、あるんじゃないかな」という高倉の言葉をきっかけに、「ホタル」(2001年)の企画がスタートしている。
結果的に、この「ホタル」が高倉にとって東映での最後の作品となり、「あなたへ」(2012年)を撮り終え、降旗監督との次回作「風に吹かれて」を準備中の2014年11月10日、鬼籍に入る。
ロケ地である根室本線の幾寅駅は、ロケセットを保存し、観光資源として活用しているが、2016年の台風被災により廃線。
高倉健の心を動かした降旗康男監督と坂上順プロデューサーは、「鉄道員」公開20周年となる2019年5月に揃って鬼籍に入った。
2019年11月10日には、「映画『鉄道員(ぽっぽや)』公開20周年記念上映会」が丸の内TOEIで行われ、小林稔侍・大竹しのぶ・広末涼子・木村大作カメラマンが登壇し、当時の思い出・撮影秘話などを語っている。
「ああいう人が日本映画に加わってほしい」と高倉健に言わしめた志村けんは、「鉄道員」以来20年ぶりとなる主演映画「キネマの神様」(2021年)準備中の2020年3月、新型コロナウイルスに罹り「映画人」となることなく、「喜劇人」のままこの世を去った。
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