チェックで
あぁ、ちょっと酔ってきたな。明日は朝からめんどくさい会議だから帰ろうかな。あたしがそう思うころになると、そのひとはいつも決まって現れる。
「こんばんは」
18から始めた飲み屋通いももう10年になって近場は行き尽くしてしまったものだから、少し離れた街で店を探すのが楽しみになっていた。そんなとき、たいていは1度切りで行かなくなるのだけれど、ちょっといいなと思って2度目に行ったバーでそのひとに会った。
「こんばんは」
あ、どうも、こんばんは。
「こちらにはよくいらっしゃるのですか?」
いえ、いえ。まだ2回目です。
「そうですか、私もまだ3回目です」
最初はそんなありきたりの会話だったと思う。やがて何度目かに会ったとき、なんでそうしたか今でもわからないのだけれど、あたしが書いた歌詞のノートを見せた。そのひとは何も言わず、ずっと見入っていた。同じページを繰り返し。ええ、どうしちゃったの、なんて答えたらいいかわからないのかな、見せちゃいけなかったのかな、そりゃそうだ、作詞家でもなんでもないシロウトが趣味で書いた歌詞なんか見せられても困るよな。そう思いはじめたとき、そのひとはやっと口を開いた。
「いいですね。あなたの心の中が見えるようです」
それからいろいろな話をした。仕事のこと、子どものころのこと、家族のこと、忘れたかったことと忘れなければいけないこと。なぜこの歌詞を書いたのか。
そのひとは何も言わずただ、グラスを傾けながら聞いていた。
あたしはね、いつも飲んで帰るときになんとなくね、リップを塗ってミントを噛みしめるの。それは無意識の癖で、毎夜そうしていたのかもしれない。ある日いつものあたしを見たそのひとは「チェックで」と言って両手の人差し指でバツをつくった。あはは、それ古くないですか? 子どものころに父がそうしていたのを見た気がする。そう言ったら、そのひとは照れくさそうに笑った。
その日、初めてふたりで店を出た。中学生のときに家を出ていった父に近いぐらいの歳の人なのに、いつも煙草を吸っているのに、いいにおいがする。服や、指先や、首や、耳や、髪から。抱きしめながらそう言ったら、やっぱり照れくさそうにしていた。
それから、何度かその店で会った。約束はしない。その店に行ってもだいたいいつも居ないし、たぶん、そのひとがひとりで飲んでいる日もあるのだと思う。あたしはその店で過ごすそんなあやふやな空間と時間が好きだったんだ。たぶん、あのひとも。
その日、あの店に行くと、あのひとはひどく酔っていた。あのひとが先に店に居てもあたしが先に居ても先に声を掛けるのは決まってあのひとからだったのに、氷だけが残るグラスを前にして、カウンターに肘をついてぼんやりしていて、あたしの存在に気付いていないようすだった。隣に座っても声をかけてくれないし、手持ち無沙汰なあたしは黒ビールを飲み干して、カミカゼを飲んで勢いをつけても、なんて話しかければいいのかと困惑していた。ひとりで飲み始めたころはこんなこともよくあったな、なんて考えながら2杯目のカミカゼを飲み干そうとしたときにあのひとが口を開いた。
その日から、あのひとはこの店に来なくなった。連絡先は知らないから、最近は来ていないのですかとマスターに聞こうと思ったけれど、すぐにそのことばを飲み込んだ。そういえば、マスターがしゃべっているところを見たことがない。
それから、何度もこの店に来た。この店で会って、会わなくなった人も居る。泣いたこともある。でも、なんとなく、この店に来てしまう。
あぁ、今日もちょっと酔ってきたな。明日も朝からめんどくさい会議だから帰ろうかな。リップを塗ってミントをいつもより多めに噛みしめたらなぜか
『チェックで』
ちぇっ、なんでかなぁ。あたしの両手の人差し指に作られたバツを見て、あたしは照れくさそうに笑った。
マスターの笑顔を初めて見た気がする。
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とあるバーの常連のお客様たちのお話をもとに創作しました。