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中国・台湾・香港の歴史についてざっくりと知ることが出来るnote。
はじめに
2020年1月23日に自分が書いていたメモを、2024年3月7日に振り返ってみた。せっかくお蔵入りしかけていた物なので、世に出してみようと思った。参考文献とかは当時の自分はちゃんと控えてなかった。バカ。
そして、メモが雑で読むだけじゃスムーズに理解できなかった。だからたくさん調べて情報を追加します笑
だから、情報はそう酷く間違ってはないと思うけど、論文みたいなクオリティは期待せず、「学生が取っていたメモ」程度でお楽しみくださいな🙌
中国
国共内戦:1946年
国共内戦
中国国内で起きた、【共産党(中華人民共和国)】vs【国民党(中華民国・台湾)】の争い。
抗戦勢力
・中国国民党および中華民国国民政府率いる国民革命軍
・中国共産党率いる中国工農紅軍
①第一次国共内戦(1927年 - 1937年):第一次国共合作の破綻
②第二次国共内戦(1946年 - 1950年代):第二次国共合作の日中戦争終結に伴う国共の再対立
※一般に「国共内戦」というと②のこと。
【「中国国民党(国民政府)」vs「中国共産党」】の構図
=1920年代から敵対関係にあった
日中戦争(1937年7月7日〜1945年8月15日)
この間は、表面上協力関係(②第二次国共合作の期間中)
戦争が終結
→早くも1945年10月から再び武力衝突
1946年6月:全面的な内戦を開始
日中戦争の間
・共産党軍:後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得る
・国民革命軍(国民党軍):日本軍の前面に立って戦力を消耗
日本の降伏後
●共産党
シベリアに抑留される日本軍から最新式の兵器を鹵獲する作戦を遂行
ソビエト連邦からの援助も継続的に受領
国民党軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た
拠点となる中国北方から徐々に南下して国民党軍を圧迫
中華民国に代わる新しい中国の国家として中華人民共和国を建国
●国民党
日中戦争以降続いていたアメリカからの援助を受けて、内戦の前半には優勢を保っていた
腐敗・失策による民心離反
1948年以降の大規模な軍事的敗北
1949年に入ると勢力を急速に失う
1950年の海南島陥落によって中国本土の拠点を全て失った
情勢の変化を受け、国民党は中央政府を中国本土から台湾へ移転
海南島陥落以降は台湾地区の防衛に専念するように
中華民国という国家の消滅は避けることに成功
【国共内戦の結果】
中国は台湾の中華民国と中国本土の中華人民共和国による分断国家に
1979年以降
支配地域の変更や両軍間での戦闘行為が発生していない
しかし…
中華民国と中華人民共和国は中国統一を巡って引き続き対立関係
毛沢東:1949年
毛沢東
1949年に中華人民共和国初代の政府主席就任。
建国の父、共産党のトップ。スターリンを参考にしている。
スターリンの真似して農業
共産主義みんなやる気がでなかった→生産性低下
※毛沢東について
1922年
結党の共産党に参加
農村を拠点に勢力を伸ばした
1931年
瑞金で中華ソヴィエト政府を樹立
国民党との内戦を戦った
1935年
遵義会議で党の主導権を握った
延安を拠点に日本との戦争、国共内戦を勝利に導いた
1949年
中華人民共和国初代の政府主席就任
建国直後の朝鮮戦争に義勇軍を派遣、アメリカ軍と戦った
1958年
社会主義完成を目指し、大躍進運動を行ったが失敗
中ソ対立で孤立化を深めた
1966年
文化大革命
ブルジョワ修正主義に反対し階級闘争を継続すると主張
劉少奇らを実権派として倒した
紅衛兵などの造反派の過激な行動で始まった社会の混乱は1976年の死去まで続いた。
1978年〜
鄧小平の改革開放
文化大革命は失敗であり毛沢東の誤りであったと総括される
百花斉放:1956年
百花斉放
「みんなの意見いっぱい聞きます!」からの「いや黙れ!取り締まり」
⇒不満が爆発。毛沢東が国家主席から降りるきっかけに。
詳細
正式名称:百花斉放百家争鳴
1956〜1957年
中華人民共和国で行われた政治運動。
百花斉放百家争鳴とは「多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する」という意味。
百花運動は党中央宣伝部長の陸定一らが担当。
国内の知識人の参加を呼びかけたが、当初は三反五反運動や胡風に対する弾圧などで自由に意見を言うことは憚られ、あまり盛り上がらなかった。
大躍進政策:1958年
大躍進政策(1958年10月〜)
毛沢東主導の「第2次五カ年計画」の中で掲げられた鉄鋼、農作物の大増産運動。英国の製鉄を見習い、ソ連に依存しない重工業化と人民公社建設をめざした。しかし独自方式による鉄鋼生産の失敗、集団化が強行による生産力の低下などによって失敗。
農具を全部溶かしてとりあえず頑張って作ったが、大量の粗悪品に終わってしまう。貧困をもたらした。→毛沢東批判。
これに対し、毛沢東は、「社会主義路線に対する否定」とし、反撃。
文化大革命:1966年
文化大革命
毛沢東がもう一回トップに立つために、学生たちの紅衛兵を作って革命。
「現状が気に食わんから腐敗に対して革命」というコンセプトだった。
※詳細
1966〜1976年。1977年に終結宣言。
中国共産党中央委員会主席毛沢東主導による「文化改革運動」を装った劉少奇からの奪権運動、政治闘争。全称は無産階級文化大革命、略称は文革。
毛沢東自身が主導し、直接紅衛兵を動員して、既成の一切の価値を変革すると唱したが、劉少奇を代表とする党・政府機関および学界の実権派からの奪権闘争でもあった。多くの知識人が投獄・殺害され、文闘は武闘に発展、一般にも多くの死者を出してその後の中国社会に深刻な傷を残した。1980年代以降「重大な歴史的誤り」として全面否定。正式名プロレタリア文化大革命。文革。
革命は成功→毛沢東がまたトップに。
紅衛兵には、農業をさせた。
だが、毛沢東の自己中心的行動ですべてがぐちゃぐちゃに…。
鄧小平:1978年
鄧小平
毛沢東の次の指導者。1978年12月〜1989年11月まで、最高指導者だった。改革開放、一人っ子政策などで毛沢東時代の政策を転換。現代の中華人民共和国の路線を築いた人物。
改革開放政策(※)
現実主義で全てを立て直す試みだった。
⇒市場開放(資本主義)+社会主義=「社会主義市場経済(?)」に。
だが、貧富の差が拡大。(※国家主席にはならずに後ろから操っていた)
天安門事件(※)
「鄧小平のせいで民主化出来ないのか!民主化!」
鄧小平は軍事責任者だった。戦車で弾圧。
改革開放政策:1978年
文化大革命の末期の時期の1975年に周恩来は「四つの現代化」を提唱したが、それは江青ら四人組の抵抗に遭い、激しい政争となって、実現できなかった。周恩来はすでに病身であったので、実際には鄧小平にその仕事は託されていた
「四つの現代化」の基礎となる経済体制を、全面的に改めた。対外貿易拡大、外資利用、先進技術・管理経験の吸収、合弁などを推進。その対外開放の戦略的な地域として経済特区を設置することを柱とした方針だった。
1980年から、深圳(シンセン)・珠海・汕頭(スワトウ)・厦門(アモイ)の四つの地区が経済特区として整備された。内外の企業を誘致するためにインフラの整備、税制面の優遇措置などの法的整備が進められた。それに応じて外国資本が積極的に算入し、経済特区は急速に発展。
天安門事件:1989年
天安門事件:1989年6月4日
北京の天安門広場に集まり民主化を求める学生や市民を、中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧した。保守派の批判を受けて失脚した改革派の胡耀邦・元総書記が亡くなったことをきっかけに、北京にある天安門広場で学生らが連日追悼集会を開き、元総書記の名誉回復などを求めましたが、次第に要求は民主化への移行を求めるものに変化。中国共産党の機関紙「人民日報」が学生らの運動を「動乱」と見なす社説を掲載したことから学生たちの間に強い反発が広がり、社説の取り消しなどを求めて一部はハンガーストライキなどの行動に出るようになったほか、100万人規模のデモも行われた。事態を重く見た中国共産党は北京市に戒厳令を敷き、デモの収束のため、6月3日の夜から4日にかけて天安門広場やその周辺に軍隊を動員し、無差別に発砲して武力で強制的に鎮圧。この際に多くの学生らが犠牲になり、中国政府は死者の数を319人と発表しましたが、実際の人数はもっと多いとも指摘されていて、事件の真相は今も明らかになっていません。
江沢民:1993年
江沢民
天安門事件後、総書記に就任し、最高指導者に。
1993年に国家主席に就任し、2003年まで国家主席を務めた。
私営企業の経営者を党に取り込む方針を打ち出し、経済を牽引。
経済発展
「後進国⇒先進国」は人件費の安さで簡単に実現できる
だが中国はもう安くない…→GDPの伸びの衰えという課題。
毛沢東が子供増やせ!で増えすぎた人口。
農家で人手が欲しいけど一人っ子政策
人口比率がヤバイ。大量の老人にどう福祉を提供するのか
一人っ子政策
1人っ子政策
産児制限政策。 特に1979〜2014年まで実施された。原則として一組の夫婦につき子供は一人までとする計画生育政策 2015〜2021年までは一組の夫婦につき子供二人までとされていたため、俗に二人っ子政策と呼ばれた。
土地・民族の問題
南沙諸島の人工島
国際法を無視して埋め立て続け、軍事基地を作る
台湾のアメリカ安保(グアム基地)に対して南沙諸島からの攻撃を想定
新疆ウイグル自治区
№2は共産党員でしっかり支配
※トルコ系イスラムだから支配されたくないけど中国が鎮圧続ける
チベット自治区
ダライラマ、チベット仏教
※毛沢東と緊張関係でインドにダライラマ逃げた時→中印戦争(1962)
チベット仏教では輪廻転生する
=無限にダライラマが出てくる(パンチェンラマも)
パンチェンラマ11世
中国に逮捕される⇒「共産党が決めたパンチェンラマ11世」もいる
次のダライラマを決められるパンチェンラマがいない!終わっちゃう!
台湾
日清戦争と下関条約:1895年
日清戦争:1894年7月25日〜1895年4月17日
日本と清国の間で行われた戦争。
完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方も。
日清戦争の原因は、日清両国が朝鮮への影響力を拡大しようとねらっていたこと。当時は中国が朝鮮の宗主国として強い力を持っていた。しかし、日本は朝鮮への影響力を強めて大陸進出の足掛かりにしたいと考えていた。
下関条約:1895年
台湾は清から日本に割譲され、日本による台湾統治が開始された。日本が初めて手に入れた植民地だった。
蒋介石:1949年
蒋介石
中国国民党の孫文の後継指導者。
1926年
北伐を開始、翌年の上海クーデタで共産党を排除。
北伐完了後、国共内戦に入る
1931年
満州事変が起きると共産党掃討を優先。
1936年
西安事件を受けて内戦を停止
1937年
日中戦争が始まると国共合作に転じ、抗日戦を指導。
南京を占領され、重慶に逃れた
米英の支援を受け、連合国の一員として戦った
だが、日本との戦争が終わって再開された国共内戦に敗れる
1947年
二・二八事件
日本統治の終わった台湾で、中国本土から来た外省人と本省人(台湾人)が衝突。国民党政府の弾圧で多くの死者が出た事件。
1949年10月1日
北京で共産党の毛沢東を首席とする中華人民共和国が成立
→国民政府は12月に台湾に移ることを決定
蒋介石が国民政府を率いて台湾に撤退。総統として統治開始。
台湾関係法:1979年
台湾関係法:1979年
台湾の安全保障のための規定を含むアメリカ合衆国の法律。 同法はジミー・カーター政権による台湾との米華相互防衛条約の終了に伴って1979年に制定された。台湾を防衛するための軍事行動の選択肢を合衆国大統領に認める。
李登輝:1988年
李登輝
台湾(中華民国)の国民党(中国に戻りたい派)の政治家。1988年から台湾出身で初めて中華民国総統となり、1990年代から積極的な民主化を推進した。台湾生まれ(本省人)としての初めての総統。次第に台湾独立論に傾き、大陸の中国政府との関係は悪化した。(親日で民主的な国になった)
ひまわり運動:2014年
ひまわり学生運動
2014年3月18日に、中華民国の学生と市民らが、立法院を占拠した学生運動から始まった社会運動。ヒマワリを掲げて「中国との関係を離せ!」と主張したことからこの名前に。
蔡英文:2016年
蔡英文
台湾は台湾(中国とは別だけど経済的には依存)というスタンス。
政党: 民主進歩党。 2016年5月20日〜。
学歴
台湾の国立台湾大学法学部卒業(1978年)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (1980年–1984年)
香港
アヘン戦争:1840
アヘン戦争
1839年9月4日 – 1842年8月29日
アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの中国に対する侵略戦争。
イギリスは清朝政府のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、勝利。
※イギリスが産業革命で最強だった時代。
1842年
南京条約を締結→香港の割譲などの権益を得た
ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩。
●戦争の経緯
清が英の銀とお茶の貿易
⇒貿易摩擦
⇒インドのアヘンが大量
⇒清が港でアヘン燃やす
⇒イギリスが攻めてくる
⇒香港島を割譲することに
英国からの返還:1997年
香港がイギリスから返還
※植民地保持への国際社会からの批判の高まりが背景に
香港の人は、中国に併合されるのが嫌で国外逃亡
⇒「一国二制度」
資本主義にするし、経済と言論の自由も認める代わりに(選挙委員だけ選挙権)将来的に普通選挙を約束。とりあえず50年間は「高度な自治」を認めるからいいよね?という話だった。しかし、香港の自由は徐々に蝕まれていった。「普通選挙」と名ばかりで、選挙立候補の権利は一部のみ。
一国二制度:1997年
一国二制度
1997年7月1日より香港は中国の「特別行政」に。一つの国(中国)の中で、二つの制度(社会主義と資本主義)が併存して実施されること。
特別行政=SAR(SpecialAdministrativeRegion)
本来の主旨:地域の独自性を認めながら一体性を保つこと(帝国的な装い)
しかし、実質的に一国二制度は中国政府の無制限の介入を認めるもの。同化を大前提とする近代国家としての方針が色濃く反映している。
現時点では、イギリス植民地であった香港、およびポルトガル植民地であったマカオにおいて実施されている。
「一国二制度」は元々台湾のための制度(構想)だったと言われる。だが、それが香港で上手く機能しないと発覚した形。台湾は中国と一緒にならないことが目に見えた?
雨傘運動:2014
催涙ガスvs雨傘(ヒマワリ学生運動の影響力)
香港共産党の選挙委員会がいるから、デモは認められていない状況。
※本土の共産党に潰される
※香港では、天安門事件の追悼許されていた
天安門事件
1989年6月4日
北京の天安門広場に集まり民主化を求める学生や市民を、中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧した。保守派の批判を受けて失脚した改革派の胡耀邦・元総書記が亡くなったことをきっかけに、北京にある天安門広場で学生らが連日追悼集会を開き、元総書記の名誉回復などを求めましたが、次第に要求は民主化への移行を求めるものに変化。中国共産党の機関紙「人民日報」が学生らの運動を「動乱」と見なす社説を掲載したことから学生たちの間に強い反発が広がり、社説の取り消しなどを求めて一部はハンガーストライキなどの行動に出るようになったほか、100万人規模のデモも行われた。事態を重く見た中国共産党は北京市に戒厳令を敷き、デモの収束のため、6月3日の夜から4日にかけて天安門広場やその周辺に軍隊を動員し、無差別に発砲して武力で強制的に鎮圧。この際に多くの学生らが犠牲になり、中国政府は死者の数を319人と発表しましたが、実際の人数はもっと多いとも指摘されていて、事件の真相は今も明らかになっていません。
銅鑼湾書店失踪事件:2015 年
銅鑼湾書店失踪事件
香港の銅鑼湾にある元書店、銅鑼湾書店のスタッフ5名に関する一連の国際的な失踪事件。 2015 年 10 〜 12 月にかけて、銅鑼湾書店のスタッフ 5 人が行方不明に。うち少なくとも2人は中国本土で、1人はタイで行方不明となった。
書店では、共産党批判の出版物を置いていたようだ。翌年書店の人は香港に戻ってきたが、次々と書店は畳まれていったことから、中国の言論統制だと発覚した。
逃亡犯条例改正案:2019年
逃亡犯条例
逃亡犯条例とは、海外で罪を犯したと思われる容疑者が香港にいる場合、協定を結ぶ国や地域への要請によって引き渡しを可能にするもの。
逃亡犯条例の改正案
中国や台湾から要請があれば引き渡す。(香港のトップは共産党)香港の人も、中国から要請があったら引き渡される。中国の都合での改正。
香港の人が中国に連れていかれて中国で裁かれるルール
空港デモ:2019年
香港国際空港での反政府デモ
デモ参加者は、中国本土へ容疑者の移送を可能にする「逃亡犯条例」の改正案の完全撤回など「五大要求」を掲げていた。
「俺らは中国人じゃなくて香港人だ!」というメッセージを全世界に拡散。
だが、「度を越えたテロ行為(デモ)」は中国によって抑圧される。
中国目線
香港の企業からの信頼が落ちるから、香港をボコボコにできない。香港を武力で丸め込むと国際社会からの批判がすごい。
さいごに
ああ疲れた、こういうアウトプット、楽しいけどめっちゃ時間かかるな。その分勉強になっているんだが、ふと我に返って「学校の課題でもないのになにしてるんだろう?」とかも思う。
でも、今しかこんなにまとまった時間もないから、興味のあるトピックは勉強したい。ベトナムやラオスで共産主義の赤旗を生で見てから、もう一度学部で勉強していた頃の内容をしっかり復習したいと思うようになった。食い気味で調べると、やっぱり楽しい。
そして、歴史が教科書上だけじゃなくて、今の現実とどれほどリンクしているかを痛感している。先人たちから失敗も含めて学びたい。
そして、ここ間違ってるよ、とか、この出来事も大事だよ、とかあったらコメントで教えて下さいね!そして、感想などもお待ちしてます◎
最後まで読んでくださってありがとうございます!
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋
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