商社社員、午後7時45分の群像

もう限界だ。

中学受験から始まって、高校はエスカレーターで上がったものの、大学ではさらに難関をということで東京都内の某国立大学を受験。見事に合格をしたあとに、一流企業に就職して、異例のスピードで昇進。現在は30人の部下を束ねるプロジェクトリーダーを勤めている。

プロジェクトというのは、アフリカに眠っているとされているガス田を開発して日本国内の企業に売りさばくというもの。現在までに会社がこのプロジェクトに投資してきた総額は128億とんで300万円。後戻り出来ない社運をかけたプロジェクトのど真ん中の最前列で僕は仕事をしている。

なのに、なのにだ。

こうして我慢の限界を迎えている。

齢28。スポーツは万能で大学の時にはサークルのリーダーを勤め上げ、彼女はミスキャンパス候補にも選出された経験を持つ、メガバンクの受付嬢。年収はぎりぎり4桁に届かないが、週に1回は彼女と青山のレストランでディナーをとることにしている。残業はせずにオンタイムに全て仕事を終わらせてしまい、週に3回は豊洲のボルダリングジムで汗を流しているというのに。

扉を前にするとふるえが止まらない。肩胛骨あたりにじんわりとたまった汗が、ワイシャツの中に着たコットンシャツをしめらせている。

エレベーターの中など最悪だ。誰も自分のことなど見ては居ないのに「誰かに見られているのではないか」という不安が頭の中を駆けめぐり、食道を通って胃を冷やし、そのまま睾丸あたりにすとんと落ちてくる。

『ひょっとしてお前、何かを成し遂げたつもりになっていたんじゃないか』

誰だ。誰なんだ。耳元で誰かがささやいた気がした。階段のすみにたまったほこりが語りかける。

『俺もお前も同じ穴のムジナさ。誰かにすがって、気づけば払い落とされて、汚ねぇとののしられる。本当は気づいているんだろう?』

違う。断じて違う。僕は常に人より少し優秀で、みんなから一目置かれる存在だった。そら、疎ましいと思ったこともあるさ。でも、何かを耐えしのがなければこの暮らしは手に入らなかった。そうだろう?このタグホイヤーの時計も、アウディの車のキーも全部俺のもんだ。俺を世界が認めたからこそ、俺はこれを手に入れたことができたんだ。

地面のアリは、セミの羽を集団で巣に運んでいる。空気は湿度を帯び、かけている眼鏡が視界を曇らせた。耳の後ろから嫌な臭いがしてくる。

崩れ落ちそうな両ひざを必死で奮い立たせて「右、左、右、左…」自分のなかで小さくつぶやきながら歩みを進める。俺はエリートだ。こんなところで倒れてたまるか。路上のゴミくずになってたまるか。

やっとついた。鉄扉の前。漸次、生つばをのみこみ、メガネをネクタイで一度吹いた。手はかすかにしめって、足の裏が熱い。

ドアノブに手をかけ、ゆうっくりと回す。中からシャンプーに似た空気が顔を通り、額を通り、頭頂部を通過して、後ろ髪を揺らして消えていった。

「いらっしゃいませ。本日はレイカちゃんの出勤日になっております。メンバーズカードなどはお持ちでしょうか?本日は大変込み合っており40分ほど待っていただいております。何分コースに致しますか?」

僕は静かに首から提げていた社員証をかばんにしまい込んで、ほのかの写真を指さしていった。「40分コースで」。


#小説

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